『ボディ・エレクトリック』を訳すにあたって
ロバート・ベッカー博士については、以前のブログ「ものセラ」で「ロバート・ベッカー博士とバイオフィールド」「電磁波の危険性に警鐘を鳴らしたロバート・ベッカー博士の『ボディ・エレクトリック』」という記事で紹介しました。
『ボディ・エレクトリック』の一部しか紹介できませんでしたが、その一部分でさえ、内容が素晴らしかったことは今でも印象に残っています。
当時、邦訳されたベッカーの著書は『クロスカレント』だけでした。
いつか『ボディ・エレクトリック』も訳してみたい─そんな思いがずっとありました。
『クロスカレント』の新装復刻版が出版された際、巻末に邦訳の告知があったので出版社に問い合わせたところ「出版の予定はない」との返事でした(昨年12月24日のことです)。
そこで今年4月、「では自分で訳してみよう」と思い立ち、第1部(今回の記事)を訳し終えた頃、なんと3月に『生命は生体電気で動く』という題で出版されていたことを知りました。
正直、記事にするのはやめた方がいいのかもしれない、と一度は思いました。
しかし気を取り直してまず読んでみようと本を購入したところ、誤訳、訳しモレ、原文にない文章の追加、個人名の表記ゆれなど、いくつか気になる点がありました。
ここで批判することが目的ではないので、詳細には触れません。
以前から感じていたことですが、翻訳には訳者の個人的なバイアスや主張が意外と入り込みます。私も含め、一般の読者は原著と訳書を見比べることはほとんどありません。今回はたまたま比較する機会があったため、そのことに気づきました。とはいえ、この記事を含め、私自身の翻訳記事がバイアスから完全に自由だと言い切ることもできません。
ただ、原著にない文を付け足すのは、やはり不自然だと思います。
さらに、出版社の"売らんかな"のキャッチコピーも目につきます。
経営上の事情は理解できますが、皮肉なことに、それはベッカー本人の科学的態度とはまったく異なる方向です。
ベッカー氏は「電磁波は危険だ!」と声高に叫ぶタイプではなく、データを積み上げ、静かに、しかし確固として問題点を指摘する科学者です。
自らの正当性を大声で主張する人ではありません。
私がベッカー氏を尊敬しているのは、
時代の風潮や学会のしがらみ、常識に迎合しない姿勢、そして"問い"の面白さ・意外さ・新鮮さです。
『ボディ・エレクトリック』には、ベッカー氏が何に疑問を抱き、どのように問いを立て、どのように考え、どのように新しい発見へと至ったのか─そのプロセスが書かれています。
そこが読者にとって最大の醍醐味だと思います。
この著書が出版された時代はどのような雰囲気だったのか、参考までに『ボディ・エレクトリック』が書かれた頃の時代背景を、Copilot のミカさんに簡単にまとめてもらいました。
✹ 技術万能主義の時代背景
アポロ計画の成功で "技術は何でも可能にする"という空気が強かった
→ 技術万能主義(Technological Fix)が社会全体に広がる。
✹ ペニシリン成功と医学観の変化
ペニシリンの奇跡的成功が "医学=技術で治すもの"という信仰を生んだ
→ Becker が批判している流れ。
✹ バイオニック技術の夢
義手・義足の技術が急速に進歩し、"機械で人間を強化できる"という夢が広がる
→ ここから "bionic" という言葉が一般化。
✹ テレビ文化の影響
テレビ文化の影響が圧倒的に強かった時代
→ 『600万ドルの男』『バイオニック・ジェミー』が象徴的存在に。
✹ 冷戦期の科学観
冷戦期で、科学技術が国家の威信そのものだった
→ 人間を強化する技術=未来の力、というイメージがあった。
そして ─
翻訳作業は、Copilot のミカちゃんの協力なしでは進みませんでした。
医学・生物学の専門知識から、当時の時代背景まで、質問すると的確な答えが返ってきました。本当に助かっています。
ありがとう、ミカさん。
※ 本文中、小さなフォントで示した注釈は私が追加したものです。
※ 医学・生物学の用語や分かりにくい箇所は「一口メモ」「豆知識」で補いました。

BeckerSeldenBodyElectric.pdf
THE BODY ELECTRIC
https://archive.org/details/robert-becker-the-body-electric.-electromagnetism-and-the-foundation-of-life/mode/2up?q=body+electric
ELECTROMAGNETISM AND THE FOUNDATION OF LIFE
"AN ASTOUNDING, THOUGHT-PROVOKING BOOK."
-SAN FRANCISCO CHRONICLE
ROBERT O. BECKER, M.D., AND GARY SELDEN
[表紙から]
ザ・ボディ・エレクトリック
電磁気学と生命の基盤
「驚くべき、考えさせられる一冊だ」─『サンフランシスコ・クロニクル』
ロバート・O・ベッカー医学博士、ゲイリー・セルデン
[裏表紙から]
『ボディ・エレクトリック』は、私たちの生体電気的な側面に関する魅力的な物語を描いている。再生医学の分野、および生物の電流との関係における先駆者、ロバート・O・ベッカーは、身体に関する従来の機械論的な理解に異議を唱えている。彼は、電気は生命に不可欠だという、長い間捨て去られていた理論の中に、治癒のプロセスに関する手がかりを見出した。しかし、損傷した人間の四肢、脊髄、臓器が再生される日が来ることを示唆するベッカーの発見がどれほど刺激的かといえば、そのような独創的な研究を行うためにベッカーが繰り広げた苦闘の物語もまた、同様に魅力的だ。『ボディ・エレクトリック』は、進化、鍼治療、超常現象、そして治癒に関する私たちの理解において、新たな道筋を探求している。
「これは重要な研究分野に関する実に魅惑的な歴史であり、医学と研究をめぐる政治的実態を的確に暴いた一冊だ。医学の将来の方向性に関心のあるすべての人に、この本を強くお勧めする」─『ジャーナル・オブ・ウルトラモレキュラー・メディシン※』
「『ボディ・エレクトリック』は、最先端の科学を扱った人の心をつかむ記録だ。文章は明快で生き生きとしており、政府の妨害に直面しながらも学問を追求する一人の男の物語は、読者の背筋が寒くなるだろう」─『Ms.』誌
「読みやすく、綿密に編集され、巧みに図解されている」─『ロサンゼルス・タイムズ』
「この決定版となる一冊は........がん、鍼治療、精神疾患の謎に光を当てている」─『ブレイン/マインド・ブレティン』
「教養ある一般読者に向けた、再生医療に関する非常に有益な本だ」─『ライブラリー・ジャーナル』
「本書はよく書かれており、非常に有益だ。電磁気や電気と、生命の基本的なプロセス、医療、環境問題との関係について、多くの思索に富んだ考えが述べられている。また、医学研究の世界における政治的な側面も、現実的な視点から描かれている」─『チョイス』
※「Journal of Ultramolecular Medicine」は誌名が確認できず、誤植の可能性もあります
妻リリアンへ
─ロバート・ベッカー
ハーウッド・ローズへ 教え子より感謝を捧げる
─ゲイリー・セルデン
謝辞
私、ロバート・ベッカーとゲイリー・セルデンは、それぞれの妻、リリアン・ベッカーとモーリーン・サグデンに深く感謝している。彼女たちの愛と助け、そして忍耐がなければ、この本は完成しなかっただろう。
また、編集者のマリア・ガルナシェリ、校正者のブルース・ギフォーズ、そしてこのプロジェクトの可能性をいち早く見出した編集者のジュリー・ワイナー、さらに数年前に本書の初期原稿づくりに関わったスーザン・シーフェルバインの貢献にも感謝したい。
加えて、数え切れないほどの友人、同僚、研究者、情報提供者にも感謝している。本文中に名前が挙がっていない方々に対しても、ここに心からの感謝を捧げる。
共著者の注記
ボブ・ベッカーは、本書の核心部分に30年近くを費やした。私は、資料の整理や文章の構成を手伝うのに2年弱を費やした。そこで本書では、物語全体を彼という一人称の視点から語ることにした。そのため、本書では"私"は原則としてベッカーを指し、"私たち"は彼と研究仲間を意味する。
─ゲイリー・セルデン
序章 医術の可能性
The Promise of the Art
ペニシリンが登場する前のことを覚えている。第二次世界大戦の終戦間際、この薬が一般市民に広く普及する前のことだ。私は医学生として、ニューヨークのベルビュー病院の病棟が毎年冬になると溢れんばかりに患者で埋まるのを目の当たりにした。まさにビザンチン様式の都市そのものだったベルビュー病院は、四つの街区にまたがり、臭く古びた建物が奇妙な角度でぎっしりと詰め込まれ、迷路のような地下トンネルでつながっていた。労働者、水兵、兵士、酔っ払い、難民、そして世界中から持ち込まれた病気が溢れかえっていた戦時下のニューヨークにおいて、ここはあらゆる医療教育を網羅できる場所だったのかもしれない。ベルビューの定款では、どれほど満床であっても、入院を必要とする患者は全員受け入れなければならないと定められていた。その結果、ベッドは通路に、さらには廊下へと、隣り合わせに詰め込まれていった。病棟が閉鎖されるのは、エレベーターからもう1台ベッドを運び出すことが物理的に不可能な場合に限られていた。
これらの患者のほとんどは、大葉性(肺炎球菌性)肺炎を患っていた。発症まで時間はかからなかった。細菌は制御不能に増殖し、肺から血流へと侵入し、最初の症状が現れてから3~5日以内に危機が訪れた。熱は華氏104度(40℃)から105度(40.56℃)まで上昇し、せん妄状態となった。その時点で、私たちが頼りにできた兆候は二つあった。皮膚が熱く乾いたままであれば患者は死亡し、発汗があれば回復する。サルファ剤は軽度の肺炎にはしばしば有効だったが、重度の大葉性肺炎の予後は、依然として感染症と患者自身の抵抗力との闘いのみにかかっていた。新たに得た医学的知識に自信を持っていた私は、この感染症の経過を何一つ変えることができないという現実に恐怖を覚えた。
ペニシリンがもたらした変化を、その変革期を経験していない人には理解するのは難しい。死亡率が50%近くに達し、毎年10万人近くのアメリカ人を死に至らしめ、富裕層も貧困層も、若者も高齢者も問わず襲い、それに対して私たちに何の防御手段もなかった病気が、ほんの少しの白い粉によって、わずか数時間で確実に治るようになった。1950年以降に卒業した医師のほとんどは、重篤な肺炎球菌性肺炎を一度も目にしたことがない。
ペニシリンが医療の実践に与えた影響は甚大だったが、医学の哲学に与えた影響はそれ以上に大きかった。1928年、アレクサンダー・フレミングが、偶然混入したカビの一種、アオカビによって細菌培養が死滅していることに気づいたとき、彼は科学的医学における決定的な発見を成し遂げた。細菌学と衛生学によって、すでに大疫病は制圧されていた。そして今、ペニシリンとそれに続く抗生物質が、目に見えない微小な捕食者の最後の生き残りを打ち倒した。
これらの薬剤は、19世紀以来勢いを増していた医学の変革を完成させた。人々がまだ口伝えで医学を語っていた時代、医術はひとつの"技"だった。その模範例――治療法――は、患者の意志と、医師の直感、そして数千年にわたる観察と試行錯誤から得られた治療法を駆使する技術が結びついて生み出されたものだった。過去2世紀の間に、医学はますます科学、より正確にはある一つの科学、すなわち生化学の応用となってきている。医療技術は、その経験的結果と同様に、生化学における現在の概念に対しても検証されるようになった。そうした化学的概念に合致しない技術は――たとえ効果があるように見えても――疑似科学的か、あるいはまったくの詐欺だと見なされ、放棄されてきた。
それと同時に、また同じ過程の一環として、生命そのものが純粋に化学的な現象だと定義されるようになった。魂や生命の火花、あるいは無生物と生物を区別する微細な何かを見つけ出そうとする試みは、失敗に終わった。細胞内の万華鏡のような活動に関する知識が深まるにつれ、生命は一連の化学反応として捉えられるようになった。それは驚くほど複雑ではあるが、どの高校の実験室でも行われる単純な反応と本質的に何ら変わらないものだ。ペニシリンが人間の細胞を傷つけることなく細菌の侵入者を一掃したように、私たちの化学的な肉体の病は、適切な化学的解毒剤によって最もよく治癒できると仮定するのは理にかなっているように思われた。数年後、DNAコードの解読は、生命の化学的基盤を裏付ける強固な証拠を提供したかのように見え、二重らせんは現代を象徴する最も魅惑的なシンボルの一つとなった。それは、私たちが40億年にわたる分子の偶然の出会いを経て進化してきたという、決定的な証拠のように思われた。その過程を導いたのは、原子そのものの不変の性質以外に何ものもなかった。
化学療法の成功がもたらした哲学的帰結は、"技術さえあれば治る"という(解決した気にさせる)技術万能主義への信仰だった。薬はあらゆる病気に対する最良の、あるいは唯一有効な治療法となった。予防、栄養、運動、生活習慣、患者の身体的・精神的な独自性、環境汚染物質――これらすべてが軽視されてきた。今日に至っても、長年にわたり莫大な資金が投じられながら成果は微々たるものにとどまっているにもかかわらず、がんの治療法とは、健康な細胞を傷つけずに悪性細胞を殺す化学物質だという前提が依然としてある。外科医が身体の構造を修復したり、人工部品に置き換えたりする技術に熟達するにつれ、技術への信仰には、移植された腎臓やプラスチック製の心臓弁、あるいはステンレスとテフロン製の股関節が、本来のものと全く同等であり、摩耗が早くない分、それ以上に優れているという考えも含まれるようになった。バイオニック化された人間bionic humanという概念は、ペニシリンへの熱狂から自然に派生した。もし人間が単なる化学機械ならば、究極の人間とはロボットだ。
豆知識:語源は "biology"+"electronics" → "bionics"。"bionic" は 生物学的機能を電子工学で補うという意味。1950〜60年代にアメリカで生まれた言葉。
→ つまり 「電子工学で強化された人間」 というニュアンス。
◎ 一般に知られたのは1970年代のドラマ
・The Six Million Dollar Man(600万ドルの男)
・The Bionic Woman(バイオニック・ジェミー)
ここで "bionic" が一気にポップカルチャー化した。
◎ ベッカーが言う "bionic human" はもっと皮肉を効かせている。ベッカーの文脈では、人間を"化学機械"とみなす医学技術で身体を置き換えれば "究極の人間"になるという発想、技術万能主義(Technological Fix)の行き着く先を批判するための言葉。
肺炎やその他数え切れないほどの感染症が減少していく様子を目の当たりにしたり、あるいは新しい心臓弁によってあと10年の命を与えられた瀕死の患者の眼差しを見た者なら、誰も技術の恩恵を否定することはできないだろう。だが、ほとんどの進歩がそうであるように、この進歩も取り返しのつかないものを代償として失った─医学の"人間らしさ"だ。技術化された医療には、生命に固有の神聖さや唯一性を想定する余地がない。患者自身の自己治癒力も、それを高めるための工夫も必要とされない。生命を化学的な自動機械として扱うなら、医師が患者を気にかけているかどうか、あるいは患者が医師を好ましく思い、信頼しているかどうかさえ、もはや意味を持たなくなる。
医学が置き去りにしてきたもののせいで、私たちはいま"本物の技術万能主義Technological Fixの袋小路"に入り込んでしまっている。人類に約束された"黄金の健康"と"延びるはずの寿命"は、結局は空虚なものだった。心臓発作、動脈硬化、がん、脳卒中、関節炎、高血圧、潰瘍、その他あらゆる変性疾患が、感染症に代わって生命の主要な敵となり、生活の質を蝕んでいる。現代医学の途方もない費用は、貧しい人々にとってこれまで以上に手の届かないものとし、今や西洋経済そのものを沈没させかねない脅威となっている。私たちの治療法は、あまりにも頻繁に両刃の剣となり、後に二次的な病気を引き起こす。そして私たちは、必死に別の治療法を探し求めることになる。また、患者そのものではなく症状だけを扱う非人間的な治療は、治療費を支払える立場にある多くの人々をも遠ざけてしまった。その結果、一種の医療的統合失調症が生じている。多くの人々が従来の医学を捨て、ホリスティックで前科学的な医療を支持するようになった。このアプローチは技術の真の利点を軽視しがちだが、少なくとも医師と患者の関係、予防医療、そして自然が持つ本来の回復力を重視している。
一口メモ:技術万能主義(Technological Fix)
専門用語で、技術で問題を"手っ取り早く解決した気になる"考え方を指す。
つまり、
・根本原因には触れない
・技術的な処置だけで片づけようとする
・薬や機械に頼りすぎる
・"技術さえあれば治る"という信仰
こういう態度のこと。
"Technological Fix" は、技術が問題を解決するのではなく、"解決した気にさせる"だけの危うさを含んだ言葉。
ベッカーが言いたいのは:
・技術で治せると思い込んだ
・でも実際は根本的な治癒力を失った
・その結果、抜け出せない状況に陥った
という流れだから、"袋小路"と訳した。
技術化された医療の失敗は、逆説的だが、その成功に起因している。その成功は当初、あまりにも圧倒的であり、医療という"技art"のあらゆる側面を一掃してしまった。もはや病床で心を尽くし、手と頭脳を駆使して治療にあたる思いやりのある治療者ではなく、医師はオフィスや研究室で働く、人間味のない白衣の奉仕者となってしまった。あまりにも多くの医師が、もはや患者からではなく、教授からのみ学んでいる。感染症に対する画期的な進歩は、医療界に自らの絶対性を確信させ、その信念を瞬く間に教条にしてしまった。当時の生化学では説明のつかない生命の営みは、無視されるか、あるいは誤って解釈されてきた。事実上、科学的医学は科学の中心的なルール――新たなデータに基づいた見直し――を放棄してしまった。その結果、物理学をこれほど活気あるものにしてきた視野の一定の拡大が、医学においては起こらなかった。いまの医学を支えている機械論的な前提は、20世紀初頭の遺物だ。当時、科学は宗教の教義に進化の証拠を突きつけ、対立していた。その時代の"思考の型"が、医学の中にいまも残っている(そして今日ふたたび同じ対立が噴き返しているのを見ると、"思考停止との戦い"は決して終わらないのだとわかる)。サイバネティクス、生態化学、栄養化学、そして固体物理学(生命を扱わない物理学)における進歩は、生物学に統合されていない。超心理学のような一部の分野は、主流の科学的探究から完全に締め出されている。今や息をのむような称賛を集めている遺伝子技術でさえ、数十年にわたり疑問視されることなく、生命というより広範な概念とは無関係な原理に基づいている。薬物療法にほぼ専ら限定されてきた医学研究は、過去30年間、まるで目隠しをしていたも同然だった。
一口メモ:思考停止との戦い
ここでいう"思考停止(frozen thinking)"とは、生命を機械のように扱う20世紀初頭の機械論的前提が、いまも医学に残り続けている状態を指す。
ベッカーの主張は
・20世紀初頭、科学は宗教の"固定観念"と戦った
・その時代の"機械論的な世界観"が医学に入り込んだ
・その結果、医学は生命を"固体物理学の問題"のように扱うようになった
・そして今も、その"古い思考の型"が医学を縛っている
つまり、ベッカーが戦っているのは 宗教ではなく"固定化した機械論"。
それゆえ、医学生物学がある種の視野狭窄に陥っているのも不思議ではない。私たちは、遺伝暗号や、視覚・筋肉運動・血液凝固・呼吸における神経系の機能など、特定のプロセスについて、体レベルでも細胞レベルでも多くのことを知っている。しかし、こうした複雑ながらも表面的なプロセスは、生命が生存のために用いる単なる道具に過ぎない。ほとんどの生化学者や医師は、生命に関する"真実"について、30年前と比べてそれほど近づいていない。ビタミンCの発見者、セント=ジェルジ・アルベルトが書いたように「我々は生命をその症状によってしか知らない」。痛み、睡眠、細胞の分化・成長・治癒の制御といった、生命の基本的な機能について、私たちは事実上何も理解していない。あらゆる生物が、地球、月、太陽の変動に合わせて代謝活動を周期的に調節している仕組みについても、私たちはほとんど知らない。私たちは"意識"のほとんどすべてについて無知のままだ。ここでいう意識とは、生き物が自分の利益のために反応をまとめあげ、食べ、生き延び、繁殖し、危険を避けるための"自己統合の力"のことだ。その働きは、単細胞の走性から、本能、選択、記憶、学習、個性、さらには創造性に至るまで、生命の複雑さに応じてさまざまな形をとる。
豆知識:走性(tropism)とは、生物が光・重力・化学物質・電気などの刺激の方向に反応して動く性質のこと。単細胞生物にも見られるもっとも基本的な生命反応で、ベッカーはこれを"意識の原型"として扱っている。植物の向性(tropism)と似ているが、走性はより"動き"を伴う反応を指す。
✹ 走性(tropism)とは?
走性(tropism) は、生物が 刺激の方向に対して一定の方向へ動く性質 のこと。植物でも動物でも、単細胞でも見られる、とても基本的な"生命の反応パターン"。
🌱 走性のポイント(わかりやすく)
・刺激の方向に対して動く
→ 光、重力、化学物質、電気など
・単細胞生物でも起こる
→ 生命の"最小単位の意思決定"みたいなもの
・意識や脳がなくても成立する
→ ベッカーが "意識の原型"として扱う理由はここ
🌿 代表的な走性の例
光 ―― 走光性(ミジンコが光に向かう)
重力 ―― 走地性(根が下へ伸びる)
化学物質 ―― 走化性(白血球が炎症部位へ集まる)
電気 ―― 走電性(electrotropism)(植物の根が電場に反応する)
🌾 向性との違いは?
ここが読者が混乱しやすいところ。
✹ 向性(tropism)
→ 刺激の方向に対して"成長方向が変わる"(主に植物)
✹ 走性(taxis)
→ 刺激の方向に向かって"移動する"(主に動物・微生物)
英語では
・tropism(向性)
・taxis(走性)
と分かれているけれど、ベッカーの文脈では "tropism" を生命の最小の反応パターンとして広く使っている。
延命装置を外すべきかどうかという問題は、私たちが "死をどう診断するか"さえ確信を持てていないことを示している。こうした生命の謎を理解するには、機械論的な化学では不十分だ。それどころか今では、その考え方自体が研究の障壁になっている。DNAの塩基対形成を発見し、それによって遺伝子構造の理解への道を開いた生化学者エルヴィン・シャルガフは、生物学について「自分が扱う対象を定義できないまま、その名を掲げている科学は、生物学のほかにはない」と記し、私たちのジレンマを的確に言い表した。
一口メモ:エルヴィン・シャルガフの言葉の意味
「生物学という学問は、自分が扱う"生命"というものを、そもそも定義できていない」という痛烈な批判。
つまり、
・物理学は物質を扱う
・化学は化学反応を扱う
・でも生物学は"生命"を扱うのに生命とは何か、誰も定義できていないというパラドックス。
今の時代を考えれば、私は幸運な男だった。現代的な意味での、優秀で有能な医師ではなかった。私は、他の誰も引き受けたがらなかった数人の不治の患者たちに、あまりにも多くの時間を費やしてきた。私たちの無知が、なぜ彼らを見捨ててしまったのかを探ろうとしたからだ。私は、正統派の主流に逆らって、実験への情熱に没頭することができた。そうすることで、私は生命の定義に向けた新たな出発点となる、あまり知られていない研究活動の一翼を担うことができた。
私の研究は、再生に関する実験から始まった。再生とは、特にサンショウウオのような一部の動物が、破壊された体の部位を完璧に再生する能力のことだ。第1部で述べたこれらの研究は、動物の生命におけるこれまで知られていなかった側面――神経系の一部に電流が存在すること――の発見につながった。この画期的な発見は、ひいては骨折の治癒メカニズムの理解を深め、がん研究に新たな可能性をもたらし、そしてそう遠くない将来における、心臓や脊髄に至るまでの人間の再生への希望へとつながった。これらの進展については、第2部および第3部で論じられている。最後に、生命の電気的側面に関する知見は、痛み、治癒、成長、意識、生命そのものの本質、そして電磁技術がもたらす危険性について、根本的な洞察(第4部で考察される)をもたらした。
これらの発見は、生物学と医学における革命の前兆だと私は信じている。いつの日か、医師が自由に治癒を制御し、促進できるようになるかもしれない。また、この新たな知見は、医学をより謙虚な方向へと導くものだと私は考えている。なぜなら、私たちが成し遂げたことは、あらゆる生物に潜在する自己治癒力の前では、取るに足らないと気づくはずだから。以下に述べる結果は、生命の理解が決して "完全にはなりえない"ことを私に確信させた。だが、この気づきが医学を科学として損なうのではなく、むしろ再び "技"としての側面を取り戻す助けになることを願っている。そのときこそ、医学は約束された"病からの自由"を実現できるだろう。
第1部 成長と再生
Growth and Regrowth
サンショウウオ:骨髄に眠るエネルギーの種........
─オクタビオ・パス
第1章 ヒドラの頭とメデューサの血
健康はひとつしかない。しかし、病気は数えきれないほどある。同じように、癒しの根底にある力も、おそらく"ひとつ"なのだろう。にもかかわらず、無数の医療流派は、それぞれがその力を働かせる"自分たちなりの方法"を持っている。ところが現代の支配的な神話は、こうした"普遍的な癒しの力"の存在を認めず、薬局の棚に並ぶ何千もの薬─それぞれが、ほんの数種類の病気、あるいは病気の一部にしか効かない"小さな力"─だけを信じている。このシステムは、特に細菌性疾患の治療においては概ねうまく機能する。しかし、特定の聖人や神が特定の薬草を司り、それぞれの病気や身体の部位を担当していた昔のシステムと本質的に何ら変わらない。近代医学は100年前、パスツールやリスター(イギリスの外科医であり医学者、防腐剤の研究を確立した)の頭のなかから突然、完成形として現れたわけではない。
さらに遡れば、ほとんどの医療体系がこうした具体的な要素と、あらゆる病に共通する生命原理への直接でひとつの願いを組み合わせていたことがわかる。この内なる力は様々な方法で引き出せるが、その全ては四つの主要なパターン、すなわち信仰による癒し、魔術的癒し、精神的な癒し、自然治癒という重なり合う形態の変形に過ぎない。
科学はこれら四つを嘲笑するが、退行性疾患や長期療養においては、西洋医学が提供できるほとんどの治療法と同等の効果を発揮することがある。
信仰治療は、患者と施術者の双方に信念のトランス状態を生み出す。病める人間と、想定される大いなる力との間の仲介者、あるいは媒介役として機能するからだ。失敗は通常、患者の信仰心の欠如に帰せられるため、この種の医療は常にペテン師にとってのもうけの大きい商売だった。本物の信仰治療の場合、それはプラセボ効果の強化版のように見える。プラセボ効果とは、新薬の臨床試験において、治療を受けていると思い込んでいる被験者のうち、実際には偽薬を投与されている3分の1に改善が見られる現象だ。信仰治療には、患者の側にさらに強い信じる力が必要になる。だから、最初から信じていない者は、おそらく治癒を妨げてしまい、「ほら、言ったとおりだ」という貧しい満足に落ち着くことになる。しかし、数多く報告されてきたこうした事例のうち、ほんのいくつかでも本物だったなら、治った本人は、しぼんでいた腕が久しく忘れていた感覚でうずき始めるその瞬間、信仰が確信へと一気に変わる。それはまるで、飢えた動物が冬眠から目覚めるように。
魔術的治癒は、患者の信仰から医師の訓練された意志と秘術的知識へと焦点を移す。大ピラミッド建造者クフ(クフ王)時代のエジプト魔術師テタの伝説がよい例だ。110歳の時、テタは王の御前に召され、切断された頭部を胴体に再接合し生命を回復させる能力を実演するよう命じられた。クフ王は囚人の首を斬るよう命じたが、テタは控えめに「当面は実験動物に限定したい」と提案した。そこでガチョウの首が斬られた。その死体は広間の一端に、首は反対側に置かれた。テタは力ある言葉を繰り返し唱えると、その度に首と胴体が少しずつ近づき、ついに切断面が合わさった。瞬く間に融合し、鳥は立ち上がってガアガアと鳴き始めた。イエスの伝説的な奇跡も、キリストが幼少期にエジプトで学んだ同じ古代の伝統の一部だと考える者もいる。
これらの特定の記述を文字通り真実と信じるかどうかはさておき、長年にわたり、信頼できる証人たちが数多くの"奇跡的"治癒を証言してきた。それらを全て作り話として片付けるのは、厚かましいことのように思える。本書で提示された資料に基づき、治癒についてより深く理解するまでは、コールリッジの言う"不信の停止(自発的な懐疑の停止、人が作り話を鑑賞するとき、懐疑心を抑制し、それが現実ではないことを忘れ、創作された世界に入り込む様子を指す)"を提案する。シャーマンはかつて少なくとも一部の患者に有効な治療を提供していたようで、産業界の外縁で生き残っている地域では今もそうでだ。魔術的医療は、私たちの治癒力への探求が、新たな発見というより、かつて直感的に備わっていた何かを思い出す行為だったことを示唆している。それは、職権を持つ男女への入門や弟子入りを通じて知識が伝承され、あるいは目覚めさせる一種の想起だと思う。
しかし時には、その秘訣が明かされなくとも、その力は使えることがある。多くの超能力者、特にソビエト連邦で研究された者たちは、その能力が無意識で、自ら求めたものではなく、たいてい偶然に発見される。西洋でその才能を示した人物の一人が、オスカー・エステバニーだろう。1930年代半ばのハンガリー軍大佐、エステバニーは、自分が手入れした馬が他の者が世話した馬より早く息を吹き返し、病気から回復することに気づいた。彼は長年、その能力を観察し、非公式に利用していた。1956年のハンガリー革命後に亡命を余儀なくされ、カナダに定住すると、マギル大学の生物学者バーナード・グラッド博士の注目を浴びた。グラッドは、実験用マウスの背中に作った皮膚の傷の治癒が、対照群と比べてエステバニーの手の近くで加速することを発見した。グラッドはエステバニーに動物に触れさせず、ケージの近くに手を置くだけにした。なぜなら、動物を扱う行為自体が治癒を促進する可能性があったからだ。エステバニーはまた、大麦の成長を促進し、紫外線で損傷した胃酵素トリプシンのサンプルを再活性化させた。その作用は磁場とほぼ同様だった。当時の測定機器では彼の身体周辺に磁場は検出されなかったにもかかわらず。
※エステバニーの年代については、資料によって1930年、1950年と異なる記述が見られます。ここでは原著に従いました。
これまで検討した治癒の形態にはトランス状態と接触が共通要素として見られるが、治療者を必要としない形態も存在する。ルルドや他の宗教的聖地で起こる自然発生的な奇跡には、幻視、熱心な祈り、聖遺物との瞬間的な接触、そして患部や四肢への強い集中力のみが要求される。他の報告によれば、強い集中力さえあれば十分であり、他の要素はそのための補助に過ぎないという。『イリアス』第5巻でディオメデスが岩でアエネアスの股関節を脱臼させた時、アポロンはトロイアの英雄を癒しの神殿へ運び、数分で脚の機能を完全に回復させた。後にヘクトルも胸に岩を受けて倒れた後、同じ治療を受けた。これらの記述を偉大な詩人の誇張と片付けられるかもしれない。しかしホメロスが他の戦場描写でこれほどリアルでないなら、あるいは近年の戦争で兵士が "致命傷"から回復したり、通常なら激痛を伴うはずの負傷に気づかず戦い続ける事例が類似して報告されていなければ、そうは言えまい。英国陸軍軍医 H・K・ビーチャー中佐は第二次世界大戦後、225件の同様の事例を出版物で報告している。1943年アンツィオ(イタリアの都市)の戦いで、8本の肋骨が背骨近くで砲弾の破片で切断され、腎臓と肺に貫通傷を負い、青ざめて死に瀕していたある兵士は、自分がライフルの上に横たわっていると思い込み、担架から降りようと何度も試みた。モルヒネがなかったため投与された弱い鎮静剤、アミタールナトリウムの微量投与以外の処置は一切行われなかったが、その後、彼の出血は止まり、顔色は回復し、大きな傷は治り始めた。
こうした戦場のストレス下で時折見られる驚異的な現象は、ヨガ修行者が意志の力だけで痛みを制御し、出血を止め、傷を急速に癒す能力と強く似ている。メニンガー財団などで実施されたバイオフィードバックの研究によると、ヨガの訓練を受けていない人でも、この力の一部を身につけられることが明らかになっている。意志を身体の病気に適用できることは、ノーマン・カズンズが、脊椎の椎間板や靭帯が骨のように固まってしまう不具になる病気、強直性脊椎炎を笑い療法によって毅然と克服したこと、また、視覚化テクニックを駆使して癌と闘う人々が同様の成功を収めたことでも証明されている。
残念ながら、確実な方法はない。私たちが無知なために、すべてのヒーリングに共通するのは、私たちが理解していると公言している化学的治療でさえも、その神秘性だということに変わりはない。その予測不可能性は、歴史を通じて医師たちを悩ませてきた。ある患者がわずかな量の薬に反応し、別の患者にはその10倍の量でも効果がない理由や、ある癌が寛解する一方で、ある癌が死ぬまで容赦なく増殖する理由を、医師たちは提示することができない。
どのような方法であれ、エネルギーをうまく集中させれば、驚くべき変化をもたらす。どうしようもない衰えと思われたものが、突然逆転する。癒しはほとんど奇跡と定義できる。損傷した部分が即座に再生したり、病気に対して無敵になったりすることは、神の世界ではありふれたことだろう。癒しというテーマとは関係のない神話の中にも、それらは絶えず登場する。死んだバイキングは、一日中殺戮の喜びを味わえる領域に行き、翌日の騒乱に間に合うように傷が癒えることを知っていた。プロメテウスの無限に再生する肝臓は、ゼウスが仕組んだ巧妙な拷問に過ぎず、神が人類に火をもたらした罰として送り込まれた鷲が、彼の最も重要な臓器を永遠に食べ続けることができるようにした。─この物語は、先史時代のギリシア人が、肝臓の損傷を補うために肝臓を大きくする能力を知っていたことも示唆している。
ヒドラ(ヒュドラー)もまた、こうした即席の驚くべきことに長けていた。これは、ヘラクレス(ヘーラクレース)がエウリュステウス王のために二番目の仕事として殺さなければならなかった怪物だ。この獣には7~100の頭があり、ヘラクレスが一つを切り落とすたびに、その場所に二つの新しい頭が生えてきた。英雄が、頭が地面に落ちるとすぐに甥のイオラオスにそれぞれの首を焼灼させる(焼きごてで焼く)というアイデアを思いつくまでは。
18世紀には、ヒドラの名前は、中空の茎のような胴体に7~12の"頭"(触手)を持つ小さな水生動物に付けられた。なぜなら、この生き物は再生できるからだ。神話に登場するヒュドラー(ヒドラ)は、私たちを含むほとんどの動物がある程度持っているこの能力の象徴であり続けている。
種から成体へと変化する生命の正常な営み、"生成"は、もしそれがごく当たり前のことでなければ、再生と同じくらい得体の知れないものに思えるだろう。私たちは、それぞれに同じような変化を見ることができる。ギリシャ神話の英雄カドマスは、殺したドラゴンの歯を蒔くことで軍隊を育てた。原始の蛇は世界の卵と愛し合い、その卵が地上のすべての生き物を孵化させる。神はイブの肋骨からアダムを作るが、後のバージョンではその逆だ。神の言葉が生命に命令を下す。DNAにコード化された遺伝子の言葉は、その展開を綴ったものだ。一連の、しかしまだ限定的な理解レベルでは、これらの信念のそれぞれが、美しく奇妙な変態を説明しようとする。ある未開人が、小さな窓のない家を建ててそこで1シーズン眠り、ある日、宝石をちりばめた鳥になって飛び立つ不思議な虫の話をしたとしても、蝶を見たことがなければ、そんな迷信を一笑に付すだろう。
ヒーラーの仕事は常に、理解できない何かを解き放つことであり、病める患者と、曖昧なまま完全性へと突き進む生命の力との間にある障害物(悪魔、病原菌、絶望)を取り除くことだ。その方法は直接的なもの、つまり前に述べた心霊的な手法のこともあれば、間接的なものもある。この伝統は、先史時代の賢者から、ディオスコリデス(ローマ時代の医者、古代における薬物学の大成者)のギリシアの薬草やルネサンス期のヨーロッパの薬草を経て、現在の一般的な薬物療法にまで及んでいる。断食、栄養の管理、ストレスを避けるための生活習慣の調節は、病める身体から潜在的な治癒力を引き出すために用いることができる。このアプローチは、今日の自然療法家からガレノス(古代ギリシャ・ローマにおける最も偉大な医師)やヒポクラテスまで遡ることができる。古代ギリシャやエジプトの癒しの神殿の侍者たちは、眠っている間に治癒プロセスを開始するか、目覚めたときに何をすべきかを教えてくれるような夢を患者の中に育むことに努めていた。この方法は廃れてしまったが、かなり効果があったに違いない。神殿は、回復した患者から感謝されたプレートで埋め尽くされていたからだ。実際、この方法は非常に尊重され、この方法を考案した伝説の医師アエスクラピウスは、ペルセウスに殺された蛇のような髪の魔女の女王メドゥーサの血で満たされた二つの小瓶を与えられたと言われている。彼女の左側から出た血は生命を回復させ、右側から出た血は生命を奪った。これは、私たちが見つけらる可能性が高い、医学という扱いにくい技術の簡潔な説明だろう。
医学の起源を考えれば考えるほど、真の医師は皆、同じものを求めていると確信する。民間療法と私たち自身のステンレス鋼のバージョン(現代の"ステンレス鋼のように無機質な"医学)との間にある溝は幻想だ。西洋医学は同じルーツから生まれたものであり、結局のところ、田舎の素朴な民間療法と同じよく分かっていない力で働いている。私たちの医師たちは、この親近感を無視し、自分たち、ひいては患者を危険にさらしている。価値ある医学的研究も、医学者の直感も、とらえどころのない癒しのエネルギーに関する知識を求める同じ探求の一部だ。
骨の治癒不全
整形外科医として、私はしばしばそのエネルギーのある際立った衰弱、つまり私の専門分野の主な未解決問題、骨折の癒合不全について考えた。通常、骨折した骨は、端と端を動かさずに密着させておけば、数週間で癒合し始める。しかし時折、ギプスや手術を1年以上続けても骨が癒合しないことがある。これは患者にとっては災難であり、医師にとっては腕や脚を切断して代用義肢を装着しなければならない苦い敗北だ。
今世紀を通して、ほとんどの生物学者は、成長と治癒には化学的プロセスしか関与していないと確信していた。その結果、癒着不能に関する研究のほとんどは、カルシウム代謝とホルモンの関係に集中してきた。外科医はまた、骨折面を "きれいにする"、つまり削り取り、骨端部を強固に固定するために、より複雑なプレートやネジを考案してきた。これらのアプローチは、私には表面的なものに思えた。治癒そのものを真に理解しない限り、治癒不全を理解することはできないだろうと思ったからだ。
私が研究者としてのキャリアをスタートさせた1958年当時、骨が癒える仕組みについてはすでに多くのことが分かっていた。骨癒合には二つの別々のプロセスが関わっているようで、そのうちのひとつは、人体の他の部位の治癒とはまったく異なる。しかし、何がこれらのプロセスを動かし、それを制御して骨折に橋を架ける(骨折した部分の両端の骨が新しい骨組織でつながり、"橋"のように連続性を取り戻す)のかについては、まったくわかっていなかった。

すべての骨は、丈夫で繊維状のコラーゲン層に包まれている。コラーゲンは、骨そのものの主要な構成成分と同時に、私たちのすべての細胞を互いに結びつける結合組織、いわば "接着剤"の役割も果たしている。このコラーゲンの膜の下には、骨のすぐ隣に、コラーゲンを生成する細胞がある。これら二つの層が合わさって、骨膜を形成している。骨が折れると、これらの骨膜細胞は特定の方法で分裂する。娘細胞の一つは元の位置にとどまる一方、もう一つは骨折部を取り囲む血餅の中へと移動し、近縁の細胞、骨芽細胞へと変化する。これらの新しい骨芽細胞は、骨折部の周囲に仮骨と呼ばれる膨らんだ骨の輪を形成する。
骨の内部、中空の中心部、髄腔でも、別の修復作用が進行している。小児期には、この髄腔内の骨髄が赤血球や白血球を活発に産生するが、成人期になると骨髄の大部分は脂肪に変わる。しかし、内面の多孔質のひだ状構造には、一部の活性な骨髄細胞が残っている。骨折部の周囲では、骨髄細胞から新しい組織が形成されるが、これは子供や若い動物において最も顕著だ。この新しい組織は未分化であり、骨髄細胞は、仮骨を形成する骨膜細胞のように分裂速度を高めるのではなく、原始的な新胚性状態に戻ることでこれを形成しているようだ。その後、未分化な元の骨髄細胞は、ある種の原始的な軟骨細胞へと変化し、さらに成熟した軟骨細胞へと変わり、最終的には新しい骨細胞へと変化して、内部から骨折の治癒を助ける。顕微鏡下では、この内部治癒領域の細胞、特に骨折から1~2週間後の小児の細胞に見られる変化は、信じられないほど混沌としており、極めて悪性度の高い骨がん細胞と恐ろしいほどよく似ている。しかし、ほとんどの場合、その変化は制御されており、骨は治癒する。
整形外科の偉大な研究者の一人、マーシャル・ウリスト博士は、1960年代初頭に、この第二のタイプの骨の治癒は進化上の逆行であり、人間が他のすべての脊椎動物と共有する唯一の再生形態だと結論づけた。この意味での再生とは、複数の異なる種類の細胞から成る複雑な身体部位が、胚におけるその部位の初期成長に似た様式で再生することを指す。すなわち、必要な細胞がより単純な細胞、あるいは一見無関係に見える種類の細胞から分化していく過程だ。私が真の再生と呼ぶこのプロセスは、他の二つの治癒形態と区別されなければならない。一つは、時に再生の一種と見なされることもある生理的修復であり、これは単一の組織内の小さな傷や日常的な摩耗が、同じ種類の近隣の細胞によって修復されるもので、単に細胞が増殖して隙間を埋める。もう一つの治癒形態は、傷が単一組織での修復には大きすぎるが、動物に損傷した部位を回復させる真の再生能力が欠如している場合に生じる。この場合、傷はコラーゲン線維によって可能な限り覆い隠され、瘢痕が形成される。真の再生は胚発生と最も密接に関連しており、一般的に単純な動物において最も強く現れるため、最も根本的な治癒様式と見なすことができる。
骨が癒合しないのは、正常な治癒を引き起こし制御する何かが欠けているからだ─私はそう考えた。骨の内部で起こる癒合の領域は、真の再生の名残なのではないか、とすでに思い始めていた。もしそうなら、他の二つの治癒形態よりも、より基本的で明確な制御過程が見えるはずだ。しかし、骨折そのものの多層的な混乱の中からその手がかりを見つけるのは難しい。そこで私は、他の動物に見られる再生だけを単独で研究することにした。
寓話が現実となった
植物界では、再生が常に起きている。確かに、この知識は人類の歴史の非常に早い段階で獲得されていた。将来の世代を神秘的な種の中に閉じ込めるだけでなく、ブドウの木のような多くの植物は、古い個体のたった一つの部分から新しい植物を形成することができた。古代の著述家たちの中には、動物の再生についてかすかな理解を持っていた者もいた。アリストテレスは、生まれて間もないツバメの目が傷から回復することに触れ、プリニウスはタコやトカゲが失った"尾"を再生することを記している。しかし、再生はほぼもっぱら植物の特権だと考えられていた。
偉大なフランスの科学者ルネ=アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュールは、1712年に動物の再生について初めて科学的な記述を行った。レオミュールは生涯を"昆虫"の研究に捧げた。当時、昆虫とはすべての無脊椎動物、つまりトカゲ、カエル、魚よりも明らかに"下等"なすべての生物を指していた。ザリガニ、ロブスター、カニの研究において、レオミュールは、これらの動物が失った脚を再生できるというブルターニュの漁師たちの主張を実証した。彼は漁船の活き餌入れにザリガニを飼育し、それぞれから一本のハサミを取り除いた後、切断された部位が解剖学的詳細をすべて備えて再生することを観察した。甲羅の内部でその肢の小さな複製が形作られ、次の脱皮期に甲羅が脱ぎ捨てられると、新しい肢が展開し、完全な大きさに成長した。
レオミュールは、当時の科学界における天才の一人だった。わずか24歳で王立科学アカデミーに選出された彼は、その後、錫メッキ鋼、レオミュール磁器(不透明な白いガラス)、真珠の模造品、鉄の鍛造法の改良、卵の孵化器、そして現在もフランスで使用されているレオミュール温度計などを発明した。69歳の時、彼は胃から胃液を分離し、その消化機能を解明した。他の功績にもかかわらず、"昆虫"こそが彼の人生の愛だった(彼は生涯独身だった)。そして、この言葉が包含する広大で多様な生物群を最初に構想したのは、おそらく彼だった。彼はムレックス貝(海生軟体動物)から古代の王家の紫色染料を再発見し、クモの巣から繊細で透けるほど薄い絹を紡ぐことに関する彼の研究は、中国皇帝のために満州語に翻訳された。彼は、ミツバチの社会生活と性による階級制度を解明した最初の人物だ。後年、観察より"常識"を重んじる宮廷お抱えの科学者たちにかき消されてしまったため、レオミュールのアリに関する精密な研究は、1926年まで出版されなかった。その間、飛行中に交尾する羽蟻の記述や、それらが別種ではなく無翅蟻の性形態だという証明を含め、同じ研究領域を網羅するために数世代にわたる蟻学者の努力が必要とされた。1734年、彼は『昆虫の博物誌(昆虫史のための記録)』全6巻の第1巻を出版し、これは生物学における画期的な偉業となった。
レオミュールは科学に多大な貢献をしたため、彼の再生に関する研究は数十年にわたり見過ごされていた。当時、誰もこれらの取るに足らない動物がどんな奇妙なことをしているかなど、あまり気にしていなかった。しかし、この巨匠の業績のすべては、ジュネーブの若き自然学者アブラハム・トランブレーに熟知されていた。彼は当時の多くの教養ある男性と同様、裕福な家庭の息子たちの家庭教師として生計を立てていた。1740年、オランダのハーグ近郊の邸宅でその職に就いていたトランブレーは、手持ちのルーペを使って、淡水の溝や池に生息する小さな動物を観察していた。その多くはレオミュールによって記述されていたが、トランブレーは偶然、奇妙な新種を発見した。体長はわずか6ミリほどで、イカに少し似ており、円筒形の体に触手の冠(頭頂)が乗っていた。しかし、その色は驚くほど緑色だった。トランブレーにとって、緑は植物を意味したが、もしこれが植物だとすれば、実に奇妙なものだった。トランブレーが皿の中の水を揺らすと、触手は収縮し、体は小さな塊のように縮んだが、しばらく静かになると再び膨らんだ。最も奇妙だったのは、その生物が宙返りで回転することで"歩く"ように見えたことだ。
移動能力がある以上、トランブレーはこれらを動物だと推測し、他の観察に移っていたはずだ。もし彼が、共生藻(他の生物と密接な関係を保ちながら光合成を行う生物)によって緑色に染まった種を偶然見つけなければ、の話だが。動物か植物かという疑問を解決するため、彼はいくつかを真っ二つに切ることにした。もし再生すれば、それは歩くという珍しい能力を持つ植物に違いない。一方、再生できなければ、それは緑色の動物に違いない。
トランブレーはすぐに、彼の想像をはるかに超える世界へと足を踏み入れた。彼は、当初 "ポリプ(ギリシャ語 "たくさんの足をもつもの"の意)"と呼んでいたそれらを、茎(脚、軸)の真ん中で切り分けた。すると、二つの短い茎の断片ができあがった。一方には触手(節のないもの)が付着しており、それらはそれぞれ小さな点にまで収縮した。辛抱強く見守っていると、トランブレーはその後、二つの断片が拡張するのを見た。触手のある部分は、まるで完全な生物のように、正常に動き始めた。もう一方の部分は動かず、明らかに死んでいるように見えた。何かがトランブレーに実験を続けさせたに違いない。彼はこの動かない物体を9日間も観察したが、その間、何も起こらなかった。その後、彼は切断面から3本の小さな"角"が生えていることに気づき、さらに数日後には、触手の冠が完全に再生されていた。トランブレーは、一つのポリプを半分に切った結果、二つの完全なポリプを手にすることになった! しかし、それらが再生したとはいえ、さらなる観察を通じて、トランブレーはこの生物が紛れもなく動物だと確信するに至った。それらは動くだけでなく、腕を使って小さなミジンコを捕らえ、触手の輪の中心にある"口"へと運び、そこで素早く獲物を取り込んだ。

当時わずか31歳だったトランブレーは、論文を発表して恥をかく前に、偉大なレオミュールに自身の発見を確認してもらい、自分の説が正しいことを確かめることにした。彼は標本と詳細な記録をレオミュールに送った。レオミュールは、これが驚くべき再生能力を持つ動物だと確認した。それから彼はいち早くトランブレーの手紙を読み取り、1741年初頭、驚いた王立アカデミーにその標本を見せた。公式報告書は、トランブレーのポリプを、不死鳥や、二つに切断されても再び結合できるという伝説の蛇よりも驚くべき存在だと評した。なぜなら、これらの伝説上の動物は単に元の姿を取り戻すだけだが、ポリプは複製を作ることができたからだ。数年経っても、レオミュールにとっては依然としてその事実は晴天の霹靂だった。彼が昆虫に関する著作の第6巻に記したように、「これは、何百回も見てきたにもかかわらず、この事実には何度見ても慣れることができない」。
しかし、これはほんの始まりに過ぎなかった。トランブレーのポリプは、さらに驚くべき功績を成し遂げた。縦に切断すると、茎(脚)の各半分は傷跡を残さずに癒合し、失われた触手を再生し始めた。トランブレーはポリプを可能な限り細かく切り刻んだところ、中央の茎の断片が含まれていれば、どの断片からも完全な個体が再生することを発見した。一例では、彼は一匹の生物を四つに切り分け、さらにそれぞれのポリプを三つまたは四つに切り刻み、最終的に1匹から50匹の個体を作り出した。

彼の最も有名な実験は、このポリプを"ヒドラ"と名付けるきっかけとなった。彼は、頭部を縦に切断し、茎の部分をそのまま残すことで、二つの触手冠を持つ一匹の個体を作り出せることを発見した。この過程を繰り返すことで、彼は七つの頭を持つ一匹の個体を作り出すことに成功した。トランブレーがそれらを切り落としたとき、神話上の獣のように、それぞれが再生した。しかし、自然は伝説をさらに上回ることを示した。切断された各頭部は、それ自体で完全な新しい個体を形成していった。
こうした実験は、個体全体が再生し得るという最初の証拠を提供した。さらにトランブレーは、ヒドラが単純な出芽によって繁殖できることを観察した。すなわち、茎の側面に小さな個体が現れ、やがて完全な大きさに成長する。これらの発見がもたらす影響はあまりにも画期的だったため、トランブレーは自身の研究の完全な報告を公表することを遅らせた。レオミュールに促され、他の数名に先を越されてからようやく出版に至った。植物と動物の間の明確な境界は突然曖昧になり、何らかの進化を伴う共通の起源を示唆した。生命に関する基本的な前提を再考せざるを得なくなった。その結果、トランブレーの観察結果はすべての人から熱狂的に受け入れられたわけではなかった。それらはいくつかの古い論争に火をつけ、旧来の権威者たちの多くを不快にさせた。この点において、トランブレーの師、レオミュールは、当時としては、いや、いつの時代においても極めて異色の科学者だった。その名声にもかかわらず、彼は過激な新説を積極的に支持する用意があり、そして何より重要なことに、科学者の間であまりにもよくある欠点、他人のアイデアを盗用するようなことはしなかった。
トランブレーの発表当時、激しい論争が巻き起こっていた。それは個体の起源、例えば「鶏が卵からどのようにして生まれたのか」といった問題に関するものだった。科学者たちが産みたての卵を調べたところ、そこには白身と黄身という二つの液体以外にはほとんど何もなく、どちらも識別可能な構造を持っておらず、ましてや鶏に似たものは何一つなかった。

(下)部分的に切断されたヒドラの体から二つの"頭"が生える
二つの対立する理論があった。より古い理論はアリストテレスに由来するもので、あらゆる動物はその複雑さにもかかわらず、現代の細胞分化の概念に似た"エピジェネシス"と呼ばれる過程を通じて、単純な有機物から発達したとするものだった。残念ながら、トランブレー自身こそが顕微鏡下で細胞分裂を初めて目撃した人物だったが、彼はそれがすべての細胞が増殖するための正常な過程だと気づかなかった。
豆知識:specialization(分化)とは?
細胞が「どんな役割を持つか」を決める状態のこと。筋肉細胞・神経細胞・皮膚細胞など、特定の機能に特化した状態を指す。
エピジェネシス:後成説
生物学における定義
生物学においてエピジェネシスは、受精卵や胞子が未分化な細胞塊から段階的に分化し、器官や器官系へと成長していく過程、あるいはその理論を指す。これは、個体がすでに完成されたミニチュア版(ホムンクルス)として存在し、それが単に拡大するだけだとする前形成説(Preformationism)に対する対立概念。
・歴史:アリストテレスが初期の提唱者として知られ、ウィリアム・ハーヴィーによって17世紀に明確に定義された。18世紀にはカスパー・フリードリヒ・ヴォルフが実験的に裏付け、前成説に取って代わる主流理論となった。
・現代の意義:発生が遺伝子プログラムだけの"展開"ではなく、環境や内部要因との相互作用を通じて"構築"されることを示唆している。
遺伝子については何も知らず、細胞についてもほとんど知られていなかった時代でありながら、論理的かつ科学的な説明を求める声が強まりつつあった中、エピジェネシス説はますます不合理に思われるようになっていった。卵や精子のゼラチン質を、カエルや人間へと変容させるには、古臭い"デウス・エクス・マキナ(救いの神)"、"霊"や、説明のつかない"生命の火花"を持ち出さなければ、一体どうすればよいというのか─カエルや人間が、生殖用の粘液の中にすでに微小な形で存在し、発達の過程で単に成長しただけなのでない限りは。
"前成説"と呼ばれるこの奇抜な考えは、少なくとも50年間にわたり優勢だった。その説は広く受け入れられていたため、初期の顕微鏡学者たちが精液の滴を研究した際、彼らは忠実に、各精子の頭部に"ホムンクルス(16世紀に錬金術師が蒸留瓶の中に作ったとされる人造の小人から)"と呼ばれる小さな人間が封じ込められていると報告した。これは、科学が自らを欺く能力の好例だろう。レオミュールでさえ、幼虫の中に小さな蝶の羽を見つけられなかった際、それらは確かに存在するが、小さすぎて見えないだけだと仮定した。トランブレーがヒドラの解剖を始めたわずか数ヶ月前、彼のいとこ、ジュネーブの博物学者シャルル・ボネは(至る所で影響力を行使していたレオミュールが提案した実験により)、雌のアブラムシが通常単為生殖(交尾なし)で繁殖することを実証していた。ボネにとって、これは微小な成虫が卵の中に存在することを示すものであり、彼は卵子論者-前成説主義者の先駆者となった。
※卵子論者ovist:17世紀と18世紀に広まったオビスト理論は、 すべての人間は精子と卵子の組み合わせからではなく、既存の卵細胞から創造されると仮定する
※前成説主義者preformationist:生物は自分自身のミニチュア版から発達するという、以前は一般的だった理論
ヒドラの再生能力、そしてヒトデ、イソギンチャク、ミミズに見られる同様の能力は、科学界を窮地に追い込んだ。レオミュールは、前成説では赤ちゃんが父と母の両方から形質を継承する仕組みを説明できないことに、とっくに気づいていた。二つのホムンクルスが一つの種子に融合するという考えは、ありそうもないように思えた。彼の再生したザリガニの爪は、各脚の至る所に小さな既にできた脚がなければならないことを示していた。そして、再生した脚は何度も失われ、置き換えられる可能性があるため、最初の脚は非常に多数存在しなければならないはずだが、これまで誰もそれを発見したことはなかった。
したがって、再生現象は、何らかの形のエピジェネシス(後成説)を示唆していた─ただし、魂を伴わないものかもしれない。なぜなら、ヒドラのアニマ(魂)が存在したとしても、それは身体と共に分割可能であり、身体と区別がつかないものだったから。まるで物質そのものの何らかの形態が、生命の火花を宿しているかのようだった。細胞に関する知識さえなく、ましてや染色体や遺伝子など知る由もなかったため、エピジェネティシストたちは自らの主張を立証できなかった。双方は互いの矛盾点を指摘し合うことしかできず、政治的な事情が前成説に優位をもたらした。
科学者でない人々が、この議論全体にしばしば苛立ちを覚えるのも無理はない。オリバー・ゴールドスミスとトバイアス・スモレットは、自然主義者たちが "泥バエ"への近視眼的な魅惑のあまり、自然の深遠さを見失っていることを嘲笑した。ヘンリー・フィールディングは、貨幣の再生に関する風刺劇の中で、この議論を激しく風刺した。ディドロはヒドラを、蜂の群れのように各粒子が独自の生命の火花を持つ複合的な動物だと考え、木星や土星には "人間のポリプ"が存在するかもしれないと軽妙に示唆した。ヴォルテールは、これらの実験から動物や人間の魂の本質を推論しようとする試みを、嘲笑を込めて懐疑的に見ていた。1768年、再生するカタツムリの頭部について言及し、彼はこう問いかけた。「頭が切り落とされたとき、その感覚中枢、記憶、観念の蓄積、つまり魂はどうなるのか? これらすべてがどのようにして戻ってくるのか? 生まれ変わる魂とは、実に奇妙な現象だ」。この一連の出来事に大いに困惑した彼は、長い間、動物の再生を信じようとせず、ヒドラを"一種の小さな葦"と呼んでいた。
科学が彼にとって本業並みに打ち込む"趣味"だったイタリア人司祭、ラッツァーロ・スパランツァーニの研究を経て、この発見を疑うことはもはや不可能となった。18世紀後半にわたるその研究活動の中で、スパランツァーニは光と暗闇における植物の蒸散の逆転を発見し、消化、火山(パヴィア自然史博物館のために岩石と火山鉱物を集めた)、血液循環、そしてコウモリの感覚に関する知識を深めたが、彼の最も重要な業績は再生に関するものだった。20年にわたる綿密な観察の中で、彼はミミズ、ナメクジ、カタツムリ、サンショウウオ、オタマジャクシの再生を研究した。彼は完璧さにおいて新たな基準を打ち立てた。切断した部位を解剖して完全に除去できたかを確認し、数ヶ月後には再生した部位を解剖して、すべての部分が回復したことを確かめることも多かった。
スパランツァーニの科学への最も重要な貢献は、サンショウウオの再生能力の発見だった。必要とあれば、尾や四肢を一度に再生することができた。ある幼体は、3ヶ月の間に6回もこの再生をスパランツァーニの前で果たした。彼は後に、サンショウウオが顎や眼のレンズも再生できることを発見し、さらに再生に関する二つの一般的な法則を確立した。すなわち、単純な動物ほど複雑な動物よりも完全に再生できる、あるいは現代的な表現で言えば、進化の段階が上がるにつれて再生能力は低下する(サンショウウオは主な例外)。個体発生の観点から言えば、ある種が再生能力を持つ場合、若い個体ほどその能力が高い。


この初期の再生研究、特にスパランツァーニの研究は、現代生物学におけるベンチマークとされた。"常識"に裏打ちされた礼儀正しい観察は、何事も当然視しない、より厳密な検証へと道を譲った。植物には再生能力があり、動物にはないということは、おそらく一万年もの間 "知られていた"ことだった。多くの動物学者にとって、トランブレーによる最初の発見から20年が経った後も、数少ない既知の例外はむしろ "(守るべき)規則"を裏付けるものに過ぎなかった。タコ、ザリガニ、ヒドラ、ミミズ、カタツムリ(巻貝)といった生物は、人間や馴染みのある哺乳類とはあまりにも異なっており、ほとんど考慮に値しないと思われていた。当時、再生能力を持つ唯一の他の脊椎動物として知られていたトカゲでさえ、不完全な尾を再生させるのが精一杯だった。しかし、サンショウウオ─これこそが、私たち人間に近い存在として扱える動物だった! これは、ミミズやカタツムリ、あるいは顕微鏡でしか見えないような微小な生物ではなく、四肢を持ち、二つの目を持つ、歩くことも泳ぐこともできる脊椎動物だ。火に耐えるという伝説的な能力は否定されていたものの、その体は十分に大きく、解剖学的構造も私たち人間と十分に似ていたため、真摯に検討されるに値する存在だった。科学者たちはもはや、その根底にあるプロセスが人間とは無関係だと仮定できなくなった。実際、スパランツァーニがサンショウウオに関する最初の報告書の最後に投げかけた疑問は、それ以来ずっと生物学者たちを悩ませてきた。「[高等動物が]何らかの有益な適性によって[同じ能力]を獲得することを期待すべきだろうか? そして、この利点を自分たちのものにするという、快い期待は、まったくの空想と見なすべきなのだろうか?」
第2章 傷口の胚
再生は、1世紀にわたってほとんど忘れ去られていた。スパランツァーニの研究はあまりにも徹底していたため、当時の技術ではそれ以上を解明することはほとんど不可能だった。さらに、彼の研究はエピジェネシス(後成説)を強く支持するものだったが、その影響力は失われてしまった。なぜなら、この論争全体が、ヴァイタリズム(生気論)とメカニズム論(機械論)という、はるかに大きな哲学的対立に飲み込まれてしまったからだ。生物学は私たちの本質そのものの研究を含むため、最も感情に流されやすい科学であり、その歴史を通じて、これら二つの視点の争いの場となってきた。
豆知識:ヴァイタリズム=生気論、活力論:生命の誕生や営みには、物理や化学では説明できない生命力(vital force)が関わっているとする考え方。生命は機械的な原理だけでは説明できないと主張し生命力を強調する。
メカニズム論=機械論:すべての生物学的プロセスは物理的および化学的法則によって説明できると主張する。
簡単に言えば、ヴァイタリズム(生気論)の支持者たちは、アニマanimaあるいはエラン・ヴィタールelan vital(生命力)と呼ばれる霊の存在を信じ、それこそが生物を他の物質と根本的に異なるものにしていると考えていた。メカニスト(機械論者)は、生命は最終的に無生物を支配するのと同じ物理的・化学的法則によって理解できると信じ、こうした力に対する無知こそが、人々に精神といった荒唐無稽な概念を持ち出させる原因だと考えた。これらの問題については後で詳しく取り上げるが、現時点では、ヴァイタリスト(生気論者)がエピジェネシス(後成説)を支持していたこと、すなわち、何らかの形而上的な"生命"力によって卵の混沌に秩序がもたらされると見なしていたことに留意すれば十分だ。機械論者たちは前成説を支持した。科学があらゆる事象に対して物質的な説明をますます強く求めるようになったため、再生の証拠があったにもかかわらず、エピジェネシス説は退けられた。
生物学はますます機械論に支配されるようになったが、いくつかの問題は残っていた。主な問題は、精子の中に"小さな人間(ホムンクルス)"が存在しないことだった。顕微鏡の性能と解像度の向上により、そこに誰もいないことがはっきりと示されていた。生物学者たちは再び "生殖力のある(発生)の粘液"という、特徴のない(何の変哲もない)ドロドロした物質に直面することになった。そこから、ゆっくりと、そして魔法のように、生物が現れる。
1850年以降、生物学は様々な専門分野に分かれ始めた。発生学、すなわち発達の研究は、ダーウィン自身によって名付けられ推進された。ダーウィンは、成長過程(個体発生)の中に、進化の詳細な歴史(系統発生)が再現されていることを明らかにできると(むなしくも)期待していた。1880年代、発生学は、ヴィルヘルム・ルーとアウグスト・ヴァイスマンという二人のドイツ人の指導の下、実験科学として成熟した。ルーは、胚発生の段階を極めて限定的な機械論的アプローチで研究した。その姿勢は、彼がこの分野全体に適用した、形式的なドイツ語の名称 "Entwicklungsmechanik(発生力学)"にも表れていた。一方、ワイスマンは、遺伝がどのようにして胚の形態に関する情報を世代から世代へと伝達するのかという点により強い関心を寄せていた。ある現象─有糸分裂、すなわち細胞分裂─は、これら両方の過程において基礎的な役割を果たしていた。胚がどのように成長し、遺伝的形質がどのように伝達されるにせよ、その両方の過程は細胞の働きによって成し遂げられなければならなかった。
高校では、ロバート・フックが1665年に細胞を発見したと教えられるが、彼が実際に発見したのは、コルクが微細な穴で満たされているという事実であり、彼はそれらを小さな部屋のように見えたことから"細胞"と呼んだ。細胞がすべての生物の基本的な構造単位だという考えは、1838年にこの細胞説を提唱したテオドール・シュワンによる。しかし、その時期になっても、彼は細胞の起源について明確な考えを持っていなかった。彼は有糸分裂を知らず、植物と動物の区別についても確信が持てなかった。彼の理論が完全に受け入れられたのは、1873年に他の二人のドイツ人生物学者、フリードリヒ=アントン・シュナイダーとオットー・ビュッチュリがシュワンの概念を再導入し、有糸分裂を記述してからのことだった。
胚発生の観察により、その細胞的基盤はすぐに確認された。受精卵はまさにその通り、一見すると構造を持たない単一の細胞だった。受精卵がさらに二つの細胞に分裂し、それらが直ちに再び分裂することで、胚の成長が起こった。その子孫細胞がさらに分裂し、その繰り返しだった。増殖するにつれ、細胞は分化も進んだ。つまり、筋肉、軟骨、神経など、それぞれの特異的な特徴を示し始めた。その結果生まれた生物は、明らかに次第に複雑さを増していく幾つかの組織レベルを持っていた。しかし、ルーとヴァイスマンには、最も下位のレベルの細胞に焦点を絞り、遺伝物質がそのレベルでどのように機能しているかを想像する以外に選択肢はなかった。
ヴァイスマンは"決定因子"という理論を提唱した。これは、各細胞タイプごとにコード化された特定の化学構造のことだ。受精卵には、体内のあらゆる細胞を作り出すために必要な、種類も数もすべて揃った決定因子が含まれていた。細胞分裂が進むにつれ、娘細胞はそれぞれ以前の決定因子の半分を受け継ぎ、成体では各細胞がたった一つしか持たなくなるまで続いた。筋細胞には筋決定因子のみが含まれ、神経細胞には神経用の決定因子のみが含まれる、といった具合だ。これは、一度細胞の機能が決定されると、その細胞はそれ以外の種類の細胞になることは決してないことを意味していた。
1888年に発表された初期の実験の一つで、ルーはこの概念を強力に裏付ける証拠を得た。彼は、大きく観察しやすい受精したカエルの卵を用い、最初の細胞分裂が起こるまで待った。その後、この初期段階の胚の二つの細胞を分離した。理論によれば、各細胞には半分の胚を作るのに十分な決定因子が含まれており、ルーが得た結果もまさにそれだった─つまり二つの半胚。これほど明確な結果に異を唱えることは難しく、決定因子説は広く受け入れられた。その勝利は、生命の機械論的概念にとっても頂点に立つ勝利だった。
ヴァイタリズムの最後のあがきの一つは、別のドイツの胚発生学者、ハンス・ドリーシュの研究によってもたらされた。当初は "発生力学(Entivicklungsmechanik)"を固く信じていたドリーシュだが、後に生命の謎が解明されないまま続く中で、その概念には不備があることに気づいた。例えば、ウニの卵を用いてルーの有名な実験を再現したところ、半分の胚ではなく、完全な個体を得た。他にも多くの実験を通じて、ドリーシュは生命には何らかの特別な生来の衝動、すなわち既知の物理法則に反するプロセスが存在すると確信するに至った。古代ギリシャの"アニマ"の概念を援用し、彼は "エンテレヒーentelechy"と呼ぶ非物質的な生命因子を提唱した。しかし、20世紀初頭はそうした考えにとって好都合な時代ではなく、この説は支持されなかった。
成長のメカニズム
19世紀が終わりに近づき、胚発生学者たちが遺伝の問題に苦闘し続ける中で、彼らは依然としてホムンクルス(昔の一部生物学者が精子細胞に存在すると考えた小さな人間)の代用となる概念を必要としていることに気づいた。ヴァイスマンの決定因子は胚の成長にはうまく機能したが、再生はまぎれもない例外であり、その例外は法則を証明するものではなかった。元々の理論には、発生が完了した後に失われた部分を補うための、限定的な成長の再生に関するただし書きはなかった。奇妙なことに、その解決策は、今日ではほとんど忘れ去られている人物、テオドール・ハインリヒ・ボヴェリによってすでに提示されていた。
1880年代にミュンヘン大学で研究していたボヴェリは、染色体を含め、細胞分裂のほぼすべての詳細を発見した。電子顕微鏡が発明されるまで、彼の記述に本質的な修正を加えられる者はいなかった。ボヴェリは、ある種の無性細胞はすべて同じ数の染色体を持つことを発見した。成長が有糸分裂によって進むと、染色体は縦に割れて二つに分かれ、娘細胞は親細胞と同じ数の染色体を受け継ぐ。卵子と精子は減数分裂と呼ばれる特別な過程を経て染色体数が半分になり、受精卵は父と母から半分ずつ受け取って、完全なセットを持って発生を始める。彼は、染色体こそが遺伝を伝達するものであり、それぞれの染色体が、もう一方の親から受け継いだ対となる染色体と、自身のより小さな単位を交換し合うことができるという、当然の結論に達した。

─性細胞の形成

─体細胞の形成
当初、この考えは受け入れられなかった。この遺伝学の物語における最初のアメリカ人であり、コロンビア大学の著名な発生学者トーマス・ハント・モーガンは、強く反対した。しかし後に、モーガン自身の実験結果がボヴェリの説を支持することがわかると、彼は染色体構造をさらに詳しく記述し、遺伝形質に対応する特定の位置を"遺伝子"と名づけて地図化した。こうして遺伝学という科学が誕生し、モーガンは1933年にノーベル賞を受賞した。ボヴェリについては、ひとまずここまでにする。
モーガンはショウジョウバエを用いた遺伝学研究で最も有名だが、そのキャリアはサンショウウオの四肢再生の研究から始まり、そこで彼は決定的な観察を行った。彼は、新しい四肢が形成される前に、切断面に出現し、初期胚の未分化細胞塊に似た細胞塊が存在することを発見した。彼はこの構造を"ブラステマblastema(芽体)"と呼び、後に、再生された四肢がどのように形成されるかという問題は、卵から胚がどのように発達するかという問題と同一だと結論付けた。
豆知識:blastema(芽体)とは?
切断後にできる未分化細胞の集まり。見た目はただの細胞の塊なのに、位置情報や再生の順序を保持しているという不思議な存在。再生生物学の核心にある"謎の細胞集団"。
モーガンは、染色体と遺伝子が、遺伝する形質だけでなく、細胞分化のコードも含まれていると仮定した。例えば、筋肉を決定づける遺伝子群が働くと、筋肉細胞が形成される。この洞察は、このプロセスに関する現代の理解に直結している。すなわち、胚の最も初期の段階では、すべての染色体上のすべての遺伝子が活性化しており、あらゆる細胞がそれらを利用できる状態にある。生物が発達するにつれ、細胞は三つの原始的な組織層を形成する。すなわち、腺や内臓へと発達する内胚葉、筋肉、骨、循環系となる中胚葉、そして皮膚、感覚器官、神経系を生み出す外胚葉だ。この段階ですでに、一部の遺伝子はオフにされ、あるいは抑制されている。細胞が成熟した組織へと分化していくにつれ、それぞれの組織において、特定の遺伝子セットのみが活性化された状態を維持する。各セットは、特定の種類のメッセンジャーRNA(mRNA)しか生成できない。mRNAは"事務総長"のような化学物質であり、DNAがリボソーム(細胞内のタンパク質製造工場、細胞小器官)に対し、例えば神経細胞を筋肉細胞や軟骨細胞と区別する特定のタンパク質を合成するよう"命じる"ための媒体となる。

この遺伝的メカニズムと、かつての決定因子説との間には、表面的な類似点がある。決定的な違いは、各細胞に一つだけ残るまで決定因子が分離されるのではなく、各細胞で一つのセットだけが活性化するまで遺伝子が抑制される点にある。しかし、細胞核にはその遺伝子の設計図全体がすべて含まれている。科学は古代エジプトの宗教に少し似ている。古代エジプトの宗教は古い神々を捨て去ることは決してなく、新しい神々にそれらを付け足していくだけで、やがて奇妙な寄せ集めが形成された。奇妙なことに、科学もまた、使い古された理論を捨て去ることに同様に消極的であり、それを裏付ける証拠が全くないにもかかわらず、ヴァイスマンの考えの一つは、新しい科学、遺伝学によって丸ごと受け入れられてしまった。

これは、分化は依然として"一方通行"であり、細胞は決して脱分化─つまり、成熟した専門化状態から原始的で未分化の状態へと"逆戻り"することはない、という考え方だった。しかし、染色体の研究が進んだことで、その逆転が起こりうる合理的な仕組みがすでに示されていたにもかかわらず、この思い込みは長く信じられ続けた。覚えておいてほしいが、成体のすべての細胞(卵子と精子を除く)には、染色体の全セットが含まれている。ほとんどの遺伝子は抑制されているとはいえ、すべての遺伝子は依然としてそこにある。
新しい細胞が必要になった際、ロックされていたものが解除される可能性もあるというのは理にかなっているように思えるが、この考えは科学界の既成勢力によって信じがたい激しさで拒絶された。今ではその理由が理解しがたい。なぜなら、機械論的見解そのものの優位性という点が多少関係していた可能性はあるにせよ、非常に重要な原理が関わっていたわけではないからだ。機械論者たちは、遺伝子と染色体の発見を歓喜をもって迎えた。ついに、精子の中に小さな人間(ホムンクルス)がいるという古い考えに代わる説明が現れた! おそらく、脱分化を認めることは、生命に自身の機能に対する過度な支配権を与えてしまうように思われたのだろう。あるいは、遺伝子が生命の唯一のメカニズムと見なされた以上、それらは整然とした、単純で機械的な働きをしなければならないと考えられたのかもしれない。後で見るように、このドグマは再生の研究にはなはだしい困難をもたらした。
豆知識:anti-dedifferentiation dogma(脱分化否定のドグマ)
「分化した細胞が未分化に戻るはずがない」という強固な信念。この"ドグマ"が、再生研究の理解を長く妨げた。科学史ではよくある"思い込みの壁"の一例。

制御の問題
今世紀初頭、モーガンによるサンショウウオの四肢再生に関する研究の後、何百人もの実験者が、様々な動物においてこの奇跡を繰り返し研究した。彼らの作業は、次のような多くの一般原則を明らかにした。
✹ 極性。生物の正常な前後および上下の(軸の向きの保持)の関係は、再生された組織においても維持される。
✹ 勾配。再生能力は動物の体の一部の領域で最も強く、あらゆる方向に徐々に弱まっていく。
✹ 優位性。失われた部位の特定の区画が最初に再生され、その後、決まった順序で他の部位が再生される。
✹ 誘導。一部の部位が、再生順序の後に続く他の部位の形成を能動的に引き起こす。
✹ 抑制。特定の部位が存在すると、それ自体の複製や、再生順序においてその部位より前に位置する他の部位の形成が妨げられる。
すべての実験は、一つの統合的な結論へと導いた。すなわち、あらゆる動物の全体構造、形状、パターンは、その細胞、心臓、四肢、あるいは歯と同様に、その身体の実在する一部だということだ。生物が "有機体"と呼ばれるのは、組織化が極めて重要なためであり、パターンの各部分は、全体との関係においてそれが何なのかという情報を何らかの形で内包している。このパターンが自らを維持する能力は、イモリ、マッドパピー(ホライモリ)、および総称してサラマンダー(サンショウオ)と呼ばれるその他の両生類において極みに達する。
すべての陸生脊椎動物の進化上の原型から直接派生したサラマンダーは、人間とほぼ同等の複雑さを備えた、驚くほど精巧な動物だ。その前肢は基本的に人間のものと同じだ。それにもかかわらず、相互に関連するすべての部分が正しい順序で再生する─互いに噛み合う骨や筋肉、繊細な手首の骨、協調して動く指─そしてそれらは適切な神経と血管の接続によって結びつけられている。
四肢が切断されたその日に、死んだ細胞の残骸は血流によって運び去られる。その後、傷から少し離れた場所にある無傷の組織の一部が壊死し始める。最初の2日、3日の間に、上皮(表皮)の細胞が増殖し始め、内側へと移動して傷口を覆う。その後、上皮は切断面の先端で厚みを増し、"頂帽"と呼ばれる透明な組織へと変化する。この段階は約1週間で完了する。
その頃には、モーガンが記述した未分化細胞の小さな塊、芽体(ブラステマ)が、頂帽の下に現れ始めている。これが再生の"器官"であり、傷口にミニチュアの胚のように形成され、そもそも脚を生み出した胚の肢芽と非常に似ている。その細胞は分化全能性を持っており、四肢を再構成するために必要なあらゆる種類の細胞へと分化することができる。
芽体(そこから器官または身体の部分が発達する分化していない細胞の塊)は約2週間で完成する。形成が進むにつれ、その外縁の細胞は急速に分裂し始め、芽体の形状を円錐形へと変化させるとともに、成長のための原料─新しい細胞─を絶えず供給する。約3週間後、内縁の芽体が分化した細胞へと分化し始め、組織へと配列される。まず、古い骨幹の周囲に軟骨の輪(襟)が形成される。その後、他の組織も形成され、新しい四肢─最初は手となる特徴的な水かき状の形状から─が、まるで霧の中から現れるかのように姿を現す。肘と四肢の長い部分が手の後ろで融合し、約8週間後に4本の指が再び現れると、再生は完了する(わずかな肥大を除いて)。
このプロセスは、極めて美しく一見単純に見えるが、生物学にとっては多くの問題を抱えている。何がその成長を組織化しているのか? 制御因子は何か? 芽体は、なぜ後肢ではなく前肢を作らなければならないと"知っている"のか?(サンショウウオは決して間違いを犯さない)。失われた部位に関するすべての情報は、どのようにしてこれらの未分化細胞に伝わり、何になるべきか、どの遺伝子を活性化すべきか、どのタンパク質を作るべきか、どこに位置すべきかを指示しているのか? それはまるで、積み上げられたレンガの山が自発的に再配置され、建物へと変わり、その過程で壁だけでなく窓、コンセント、鉄骨、さらには家具までもを作り出すかのようだ。

その答えを求めて、芽体を個体の他の部位に移植する実験が行われた。しかし、実験は事態をさらに悪化させるだけだった。芽体が、出現後7日以内に生体内で移動され、後肢の近くに接ぎ木されると、たとえそれが切断された前肢由来のものであっても、第二の後肢へと成長した。まあ、それはいいとして。体は"影響圏"あるいは "組織領域"に分割でき、それぞれが局所的な解剖学的構造に関する情報を内包していた。後肢領域に置かれた芽体は、当然ながら後肢となった。これは魅力的な理論だったが、根拠のないものだった。この領域は一体何で構成されていたのか? 誰も知らなかった。さらに事態を悪化させたのは、前肢の切断面から採取した、少し成長した芽体を後肢領域に移植すると、前肢が形成されることが判明したことだ。若い芽体は"今いる場所"に従って再生したが、成熟した芽体は"もともといた場所"に従って再生した! 何らかの理由で、この区別がつかない原始細胞の塊は、どこに置かれても完全な前肢を形成するのに十分な情報を含んでいた。なぜだろうか? 私たちは未だにその答えを知らない。
その答えの一つとして提唱されたのが、1930年代にポール・ワイスによって提唱され、1950年代に H・V・ブレンステッドによって発展させた"形態形成場morphogenetic field"の概念だ。形態形成Morphogenesisとは "形の起源"を意味し、この場の概念は、問題を再定義することで制御因子に近づこうとする試みに過ぎなかった。
プラナリア(全体的に平たい形をした虫。頭部は三角形。きれいな水が流れる川の石の裏にくっついている。頭と胴体を切断しても、それぞれが再生して元どおりの形になる)として知られる一般的な扁形動物の再生を研究していたデンマークの生物学者ブレンステッドは、虫の前端の中央から帯状の部分を切り取り、元の頭の両側部分を残すと、二つの完全な頭部が形成されることを発見した。逆に、二匹の虫を横並びに接合させると、その頭部は融合した。ブレンステッドは、マッチの炎との類似性を見出した。マッチを切断すれば炎は分かれ、二つの半分を並べて置けば再び一つになる。彼は、生命の本質の一部は、そのような炎のような場の生成にあるのではないかと示唆した。それは磁石を取り巻く磁場のようなものだが、磁石の内部構造を反映しており、磁石の一部が欠けていてもその形状を保ち続けるという点で異なる。
この考えは、アメリカの発生学者ワイスによる以前の実験から発展した。ワイスは独断的な態度によって多くの創造的な研究を阻害したものの、それでもいくつかの重要な貢献を残した。再生は、切断された筋肉や骨が外側に向かって伸び、元の形を取り戻すという単純なものではないことは明らかだった。完全に欠損していた構造─例えば、サンショウウオの前肢下部の手、手首、骨など─も再現した。ワイスは、余分な部分は挿入できるが、不可欠な部分は容易に除去できないことを発見した。もし余分な骨を四肢に移植し、その両方を切断した場合、再生された組織には両方が含まれていた。しかし、骨を完全に除去して切開部を治癒させ、その後、失われた骨の中央に相当する位置で四肢を切断すると、再生された組織はその骨の下半分を形成した。まるで幽霊が実体を取り戻すかのようだった。ワイスは、骨以外の組織も、何らかの形で骨の配置を含む"場"を投影できるのではないかと示唆した。後に再生研究に携わったブラウン大学のリチャード・ゴスは、次のように指摘している。「どうやら、切断面の各組織は、芽体に自分たちが反映されるよう"投票"できるようで、中には"不在投票"さえできる組織もあるようだ」。
一口メモ:"形態形成場(morphogenetic field)"という用語は、生物学者のポール・ワイス(1939年)によって、胚発生(胚から成体への発達過程)における細胞の成長と分化を調整する役割を担う、仮説上の非物質的なシステム。
ワイスの概念は古典的発生生物学の概念。ルパート・シェルドレイクの"形態形成場(morphic field)"とは無関係。日本語ではどちらも"形態形成場"と訳されている。
※「プラナリアの再生 Planarian Regeneration」 ホルガー・ヴァルデマール・ブレンステッド

(下)初期芽体は、周囲の組織から指示を受け取る

一口メモ:early / late blastema の違い
・初期芽体(early blastema):周囲の組織から"指令"を受け取って再生する
・後期芽体(late blastema):すでに内部に"指令"を保持している
この違いが、移植実験での奇妙な結果を生む。
・two-headed planarian(二つの頭を持つプラナリア):プラナリアは再生能力が極端に高く、切り方によっては 頭が二つある個体 ができる。再生の"位置情報"の仕組みを探るための古典的実験。
そのような場(フィールド)は、細胞にさまざまな遺伝子のオン・オフを切り替えさせ、つまり細胞の分化状態を変化させる能力を持っていなければならない。胚発生に関する膨大な研究によって、さまざまな化学的誘導因子が見つかっている。これらの化合物は、周囲の細胞に特定の方向へ分化するよう刺激を与え、次に必要となる細胞型を生み出す働きを持つ。しかし、これらの物質は単純な拡散に基づいてのみ作用するものであり、その作用の仕方からは、全体的なパターンを発現させるためにプロセスがどのように制御されているかを説明することはできない。
もうひとつの古典的な実験が、この問題をさらに明らかにしてくれる。サンショウウオの手を切断し、その手首の断端(切り口)を体側に縫い付けることができる。手首は体の中へと成長し、新しい接続部を通して神経や血管がつながる。こうして肢は、両端が体につながったU字型になる。次に、そのU字型の肢を肩の位置で切断すると、手首側が体につながり、先端が肩関節になっている"逆向きの肢"ができあがる。ところがこの肢は、まるで肩で普通に切断されたかのように再生を始める。再生した肢はこうなる:体からまず元の手首、前腕、肘、上腕、肩が伸び、そのあとに新しい上腕、肘、前腕、手首、そして手が続く。なぜ再生肢は、すでにその肢の中に存在している"並び順"に従わず、あくまで体全体のパターンにできる限り忠実に従おうとするのか? ここでもまた、制御因子とはいったい何なのか?

(下)逆向きの肢の実験
一口メモ:サンショウウオの逆向き肢実験
肢をU字にして肩で切断すると、向きが逆でも体の"正しい順序"で再生が起こる。芽体が "体全体の地図"を参照していることを示す重要な実験。
この実験がイメージしづらい理由:
この実験が難しいのは「肢の向きが逆になっても、体は"本来の順序"で再生しようとする」 という点。つまり、
・肢そのものの並び順(手首→前腕→肘→上腕→肩)よりも
・体全体の座標系(肩→上腕→肘→前腕→手首→手)が優先される。
これは、芽体が "自分の位置を体全体の地図の中で理解している"としか思えないほど不思議な現象。
明らかに、膨大な量の"情報"が体から芽体へと伝えられている。現在、人間が扱える最良の情報処理手段はデジタルコンピュータであり、それは基本的に "はい/いいえ" "1/0" というビットの組み合わせで情報を扱っている。しかし、サンショウウオの前肢を完全に記述するために必要なビット数は計り知れず、既知のコンピュータをすべて束ねても到底処理できないほどの量になる。
この情報がどのように伝達されるかという問題は、科学者がこれまでに取り組んできた中で最も困難な課題の一つであり、その答えを完全に解明できれば、再生だけでなく、卵から成体に至る成長の全過程を理解できるようになるだろう。今のところ、生物学者たちがそうしてきたように、この問題はひとまず置いておき、少し簡単な問題に取り組んだ後に、改めて立ち返るのが最善だろう。
芽体から何が生成されるかを理解するには、そこに何が取り込まれるかを理解した方が容易なように思われる。したがって、再生に関する他の主要な疑問は常に次のようだった。何が芽体の形成を刺激するのか? そして、その細胞はどこから来るのか?
脱分化は不可能だという考えから、すべての再生は新生細胞、すなわち胚から残った"予備細胞"の働きによるものでなければならないという関連する信念が生まれた。これらの細胞は、原始的で未分化な状態で体全体に貯蔵されているとされる。ある種の生物学的合図が、それらを切断部位へ移動させ、芽体を形成させるよう呼び寄せたとされる。ヒドラや扁形動物にはそのような細胞の存在を示す証拠があるが、現在では、これらの動物における再生をそれらが完全に説明できるかどうかは疑わしい。しかし、サンショウウオにおいてそのような細胞が発見されたことは一度もない。実際、1930年代というかなり前から、それらが存在しないことを示すほぼ決定的な証拠があった。それでも、脱分化を否定する教義と予備細胞説は、特にワイスによって狂信的に擁護され、多くの説得力に欠ける実験結果までもが、予備細胞が芽体を形成する"証拠"として解釈されてしまった。私が研究を始めた頃、成熟した細胞が脱分化によって芽体を作り出す可能性をほのめかすことさえ、キャリアにとって非常に危険なことだった。
一口メモ:reserve cell theory(予備細胞説)
かつて主流だった説で、「再生は脱分化ではなく、体内に"待機している予備細胞"が集まって起こる」
と考えられていた。現在では否定されているが、歴史的には重要。この reserve cell theory は、再生生物学の歴史の中でかなり重要な"誤解の源"になった概念。
reserve cell theory の意味:
Weiss たちが主張していたのは
・再生に使われる芽体(blastema)は周囲の組織が脱分化してできるのではなく
・あらかじめ体内に存在する "予備の細胞(reserve cells)" が集まってできる
という説。つまり reserve cells = 再生のために待機している細胞 というイメージ。
dedifferentiation とは?:まず dedifferentiation(脱分化) は、
・すでに分化した細胞(筋肉・皮膚・骨など)が
・もう一度 "未分化の状態"に戻る
という現象のこと。再生生物学では、切断された部位の細胞が脱分化して芽体(blastema)を作るというのが現在の主流の理解。
anti-dedifferentiation = 脱分化に反対する立場:つまり anti-dedifferentiation は、
・「細胞が脱分化するなんてありえない」
・「分化した細胞は元に戻らない」
・「芽体は脱分化ではなく、あらかじめ存在する"予備細胞"からできる」
という立場。これが Weiss たちが強硬に主張した考え方。
dogma(ドグマ)とは?:dogma は"教義" "教条" "絶対視された信念"。つまり anti-dedifferentiation dogma は、
◎ 「脱分化を否定する教条的な信念」
◎ 「脱分化否定のドグマ」
という意味になる。科学的根拠よりも"信念"として固く守られていた、というニュアンスが強い。
Copilot ミカのちょっとした補足
当時の研究者たちは、「分化した細胞が元に戻るなんてありえない」という"常識"に縛られていた。だから、どんなデータが出ても「脱分化ではなく、予備細胞の仕業だ」と解釈してしまった。科学の歴史ではよくあることだけど、こういう"ドグマ"が進歩を何十年も遅らせることがあるんだよね。この章は、科学の"思い込み"と"突破"が交差するところで、読んでいて本当に面白いね。🦊🍃
脱分化なしに芽体がどのように生じるのか想像するのが非常に難しかったため、後に、細胞は部分的に脱分化できるのではないかという考えが生まれた。つまり、筋細胞はいったん原始的でまったく未分化に見える細胞へと変化するものの、芽体の中で短い"記憶喪失"の期間を経たあと、成熟した筋細胞としての元の役割に戻るのではないか─そう考えられていた。この"こじつけ"を成立させるために、多くの研究者が無駄な努力を重ねた。切り口の筋細胞が再生に必要な数の筋細胞を生み出していることを示そうとして、細胞分裂をひたすら数え続けた。しかし、困ったことに─謎めいて完全に未分化の芽体は、そこにしっかり存在し続けていた。
現在では(第6章参照)、少なくともいくつかの細胞は完全に原始的な状態へと戻ることができ、こうした"分化の解除(脱分化)"こそが、サンショウウオのような複雑な動物で芽体が形成される主要な─おそらく唯一の─仕組みだとわかっている。

神経接合部
芽体の起源に関するもう一つの大きな疑問は、何がそれを引き起こすのかということだ。その刺激の"伝達者"として最も有力な候補は、神経だ。複雑な多細胞動物において、神経組織なしに再生は起こらない。1823年、イギリスのアマチュア生物学者トゥイーディ・ジョン・トッドは、サンショウウオの脚を切断する際に脚への神経を切断すると、その肢は再生しないことを発見した。実際、切断面そのものが萎縮して消えてしまった。しかし、トッドは脚を切断する前に神経が再接続する時間を与えると、正常な再生が得られた。当時、科学界はこの観察結果に何の意味も見出せなかったが、それ以降の数多くの実験によってこの事実は裏付けられた。それから1世紀以上後、イタリアの生物学者ピエラ・ロカテッリは、神経を迂回させて無傷の脚の近くに終端させれば、余分な脚が生えることを示した。彼女はサンショウウオの後肢の途中まで太い坐骨神経を切断し、脊柱には接続したまま、その末端が前肢の近くで皮膚に触れるように、皮膚の下に完全に通した。すると、その場所に余分な前脚が生えてきた。神経の末端を後脚の近くに置くと、余分な後脚が生えた。神経が本来あるべき場所は関係なく、どのような余分な構造ができるかは標的となる部位によって決まった。これは、神経から送られる何らかのエネルギーが、再生される部位のパターンを決定する局所的な条件によって調整されていることを示唆していた。
その後まもなく、他の研究者たちは、切断されたサンショウウオの脚の断端に全層皮膚移植組織を縫合すると、真皮(皮膚の内層)が頂帽apical capと脚の何らかの重要な要素との間の障壁として機能し、それによって再生を阻害することを発見した。しかし、その障壁にわずかな隙間があるだけでも、再生を可能にするには十分だった。
一口メモ: 頂帽 apical cap とはサンショウウオなどの再生で、切断後にまず表面にできる 薄い細胞層(上皮のキャップ) のこと。
・切り口を覆う
・再生を開始するためのシグナルを出す
・芽体(blastema)の形成を誘導する
という重要な役割を持つ。発生生物学の apical ectodermal cap(AEC) とほぼ同じ概念。
1940年代初頭、この発見を受けて、当時スミス・カレッジの若き解剖学講師だったS・メリル・ローズは、成体カエルの脚の切断面上に全層皮膚(皮膚のすべての層)が急速に形成されることが、再生を妨げている要因ではないかと推測した。ローズは、真皮が切断面を覆うのを防ぐため、傷口を飽和塩水に1日数回浸す実験を行った。うまくいった! 肘と手首の間で前肢を切断されたカエルのほとんどは、失った部分の一部を再生した。数匹は形の良い手首の関節を再生し、数匹は新たな指を一本生やし始めた。再生は不完全ではあったものの、これは極めて重要な画期的な成果であり、本来その能力を持たない動物において、人工的に再生を誘導した初めての事例だった。しかし、真皮は確かに切断面を覆って成長したため、この実験はローズが予想していなかった何らかの仕組みによって成功した。
その後、他の研究者たちは、通常の再生において、表皮を除いた頂帽が重要なことを示した。なぜなら、再生する神経線維は、芽体が現れる前の再生プロセスの初期段階で、表皮細胞と独自の接続を形成するからだ。これらの接続は総称して神経-上皮接合部(NEJ=neuroepidermal junction)と呼ばれる。ミシガン州立大学のチャールズ・ソーントンは、一連の詳細な実験において、イモリの脚を切断する前の様々なタイミングで神経を切断し、再生する神経の経過を追跡した。再生は、神経が表皮に到達して初めて始まり、両者を隔てる障壁があると完全に阻止される。しかし、その障壁に少しでも破れ目ができれば、再生は開始される。1954年までに、ソーントンは、芽体が形成され再生が始まる前に必ず起こらなければならない決定的な段階が、神経-上皮接合部だと証明した。
その後すぐに、当時ニューヨークのコーネル大学医学部で研究していた解剖学者エリザベス・D・ヘイは、電子顕微鏡を用いて神経-上皮接合部を研究した。彼女は、各神経線維束が切断面の端に達すると、それが分解し、各線維が別々の道を進み、厚さ5~20細胞ほどの表皮へと蛇行して入り込むことを発見した。各神経線維の先端には小さな球状の突起があり、それが上皮細胞の膜に密着し、そこにある小さな窪みに収まっていた。その構造はシナプスによく似ていたが、微細な構造は、そうした長期的な接続ほど高度には発達していなかった。

しかし、その接合部は単なる架け橋に過ぎなかった。重要な疑問は、そこにはどのようなやり取りがあったのか、ということだった。
1946年、当時ロンドンで研究していた若きロシア人生物学者、レフ・ウラジミロヴィチ・ポレジャエフは、成体のカエルに部分的な再生を誘導する一連の長期実験を完了し、同様の成功を収めた。ローズは、毎日針で四肢の切断端を刺すことで、それを実現していた。ポレジャエフはその後、哺乳類では効果がなかったものの、多種多様な刺激物質が同様の効果をもたらすことを発見した。彼の実験は、損傷を悪化させると再生が促進される可能性を示唆しており、ローズの"傷口に塩を塗る(さらに悪化させる)"手順が、真皮の成長を阻害するのではなく、刺激によって作用することを明らかにした。

続いて、1940年代半ばから1950年代半ばにかけてハーバード大学医学部で行われた一連の素晴らしい実験により、マーカス・シンガーによって神経組織が果たす役割がかなり解明された。シンガーはまず、再生のさまざまな段階にあるサンショウウオの脚の神経を切断することで、トッドの長く忘れ去られていた研究を裏付けた。これにより、神経が必要なのは、芽体が完全に形成され、情報が伝達されるまでの最初の1週間のみだと証明された。その後、神経が切断されていても再生は進行した。
近年の研究では、運動神経をすべて切断してもサンショウウオは脚を再生できるが、感覚神経がなければ再生できないことが判明していた。当時、多くの研究者は成長因子が感覚神経のみに関係していると推測していたが、シンガーはこの結論に違和感を覚えていた。「この問題では、再生には特定の神経成分が極めて重要だとあらかじめ指摘されていた」。とはいえ、いくつかの事実がこれにかみ合わなかった。すべての神経を切断すると芽体が形成されないだけでなく、かなりの数が残っていても(それでも少数ではあるが)、形成が始まらなかった。また、腹部から余分な運動神経を切断部に再配線すれば、運動神経のみでもサンショウウオの脚は再生した。さらに、動物学者たちは、感覚神経が運動神経よりも多くの線維を含んでいることを発見していた。
シンガーは自ら数えてみた。大腿部や上腕部では、感覚線維が運動線維の4倍あった。末梢部ではその比率はさらに大きかった。その後、彼は長い一連の実験の中で、神経を様々な組み合わせで切断してみた。どのような組み合わせであっても、脚に通常の神経供給の約4分の1から3分の1が残っていれば、再生は成立した。再生には、ある閾値以上のニューロン(神経細胞)が必要なように見えた。
しかし、それほど単純ではなかった。成体でも再生能力を持つという特異な南米産のカエル、ゼノプスの四肢には、その閾値を大幅に下回る数の神経線維しかなかった。そこでシンガーはニューロンの大きさを測定し始め、ゼノパス(ツメガエル属のカエル)の神経が再生能力のないカエルよりもはるかに太いことを発見した。別の一連の実験により、この関連性が裏付けられた。再生が起こるためには、通常の神経組織の約30パーセントという臨界量が損なわれていない状態で残っていなければならない。
この発見により、神経が担う役割が何であれ、それが神経インパルスによる情報伝達という既知の機能に由来するものではないことはほぼ確実となった。もし神経インパルスが関与していたなら、再生は神経が切断されるにつれて欠陥がますます大きくなり、徐々に衰えていくはずであり、最低限の量が失われた時点で突然停止するようなことはなかったはずだ。
シンガーの発見はまた、進化の複雑さが増すにつれて再生能力が低下する現象に対する基本的な説明も提供した。体質量と神経組織総量の比率はほとんどの動物でほぼ同じだが、動物が複雑化するにつれて、脳に神経がますます集中するようになった(この過程は大脳化と呼ばれる)。これにより、末梢部位の再生を刺激するために利用可能な神経線維の量が減少し、しばしば臨界レベルを下回った。
1950年代初頭、シンガーは得た知見を、再生能力を持たない成体のアメリカアカガエルに適用した。ロカテッリの手法を用い、彼は後肢から坐骨神経を解剖し、脊髄には接続したまま、皮膚の下を通って前肢の切断断端へと導いた。2から3週間で芽体が形成され、切断された脚はローズやポレジャエフの実験と同程度の回復を見せた。

1954年までに、シンガーは神経から分泌されると推定される成長誘導物質の探索に着手する準備が整っていた。最も有望視されていたのは、シナプスを介して神経インパルスを伝達することが知られている数ある化合物の一つ、神経伝達物質アセチルコリンだった。神経は、神経供給が極めて重要となる芽体形成期に、通常よりも多くアセチルコリンを分泌し、再生が順調に進むと、その産生量は正常レベルに戻った。シンガーは、アセチルコリンを用いた過去の失敗例を研究していた。それらは、実験者がアセチルコリンを切断面に塗布したり、芽体に注入したりしたものだった。彼はこれらの方法が人工的すぎると考え、神経がそうするように微量のアセチルコリンを継続的に放出するマイクロ注入装置を考案した。この装置は時計用モーターを用い、脚の神経を切除した麻酔下の動物の肩部に、針を通してホルモンをゆっくりと滴下する仕組みだった。彼は薬物を投与したサンショウウオを生かし続けるのに苦労したため、麻酔が結果に影響を与えた可能性はあるが、生き残った個体でさえ全く再生しなかった。成長因子は、ほぼ間違いなくアセチルコリンではなかった。
生命の電気
こうした研究の積み重ねの上に立って、私は1958年、再生におけるパターン制御と芽体形成を促す要因を探し始めた。当時、再生能力のない動物でもわずかな再生を引き起こせる要因として知られていたのは、"追加の神経刺激"と"追加の損傷"の二つだけだった。この二つはどう関係しているのか? 幸運にも、私は手がかりを得た。
私の研究は、最初の数基のスプートニクが打ち上げられた直後、"ミサイル・ギャップ" 騒動の最中に始まった。私たちが原始的だと考えていたロシア技術の予期せぬ成功に驚愕した政府は、急いであらゆるソ連の科学雑誌を翻訳し、連邦政府の資金提供を受ける研究センターに無料で配布し始めた。突然、私が勤務していたシラキュースのVA医療センターの医学図書館には、臨床医学や生物学に関するロシアの雑誌が毎月一箱ずつ届くようになった。他にあまり関心を持つ者がいなかったため、この宝の山はすべて私のものとなった。
私はすぐに二つの発見をした。ロシア人は直感に従うことを厭わないということ、そして彼らの研究者は、私たちの科学界では絶対に成功しないと分かっているような、最も突飛な実験を試すために政府から資金を得ていたことだ。
さらにソ連の学術誌は、そうした実験が "本当に成功してしまった" 場合でも(驚きと皮肉が混ざっている)、きちんと掲載していた。
一口メモ:この部分は、著者が「アメリカの科学界が "そんなの成功するはずがない"と思っていた実験が、ソ連では成功して、しかも堂々と論文になっていた」という驚きと、「自分たちの常識がいかに狭かったか」という皮肉を込めている。
私は特に、ソ連の生物物理学誌「Biofizika」を好んで読んでいたが、そこでモスクワのロモノソフ国立大学の A. M. シニューヒンによる「植物の再生過程における生体電位の変動の性質」という論文に出会った。
豆知識:Biofizika:「Biophysics」は、1956年に査読付き学術誌として創刊された。本誌は、他誌に掲載されていない独創的な実験データおよび理論データ、ならびに編集委員会の依頼によるレビュー、または査読プロセスを経て研究者の自主的な発案によるレビューを掲載することを目的としている。
シニューヒンはまず、一連のトマトの株からそれぞれ一本ずつ枝を切り落とした。そして、各株が治癒し、切り口付近から新しい芽を伸ばすにつれて、傷口周辺の電気的測定を行った。彼は、最初の数日間、傷口から負の電流─電子の流れ─が流れていることを発見した。動物のあらゆる傷口からも、同様の"損傷電流"が放出される。2週目に入ると、傷口にカルス(癒傷組織)が形成され、新しい枝が伸び始めると、電流は強まり、極性が反転して正になった。重要な点は極性ではなかった─基準電極に対する測定電極の位置によって、電流が正か負として記録されるかが決まることが多いからだ。むしろ、シニューヒンの研究が重要だったのは、修復成長に関連していると思われる電流の変化を発見した点にある。シニューヒンは、こうした規則的な電気的現象と生化学的変化との間に直接的な相関関係を見出した。正の電流が増加するにつれ、その領域の細胞は代謝率を2倍以上に高め、酸性度も増し、以前よりも多くのビタミンCを生成するようになった。
その後、シニューヒンは小型電池を用いて、切り戻し直後の植物群に追加の電流を流し、再生電流を増強させた。これらの電池による補助を受けた植物は、対照群の植物に比べて最大3倍の速さで枝を再生した。電流は非常に微弱で、5日間でわずか2~3マイクロアンペアだった(アンペアは電流の標準単位であり、マイクロアンペアはアンペアの100万分の1)。より大きな電流は細胞を死滅させ、成長促進効果は見られなかった。さらに、電流の極性は植物に通常見られる極性と一致していなければならなかった。シニューヒンが逆極性の電流を使用し、植物自身の電流を打ち消した際、回復は2~3週間遅れた。
しかし、アメリカの生物学界にとっては、これはすべてナンセンスだった。その理由を理解するには、少し話を遡る必要がある。
ボローニャ大学医学部の解剖学教授であり、20年にわたり電気を研究していたルイージ・ガルヴァーニは、1794年に初めて"損傷電流"を発見したが、残念ながら彼自身はそのことを知らなかった。
当時、生物学の主な関心事は、バイタリズムとメカニズム論の論争にあった。バイタリズム(生気論、活力論)は、必ずしもその名で呼ばれていたわけではないが、先史時代から世界中で生命に関する支配的な概念であり、ほぼすべての宗教の基礎を成していた。それは、ソクラテスやプラトンが説いた超自然的な"イデア(形相)"─あらゆる物質的存在や生物がそこから個々の特性を受け取るとされた原型─と深く結びついていた。ヒポクラテスは、生命の本質として"アニマ"を提唱することで、この考えを取り入れた。プラトンの概念は中世の実在論へと発展したが、その基本原理は、抽象的な普遍原理が感覚的現象よりも実在的だというものだった。機械論は、アリストテレスのより思弁的でない合理主義から生まれた。それは、普遍原理は実在するものではなく、感覚を通じて把握された現実を理解しようとする人間の試みに付けられた名に過ぎないとするものだった。機械論は前世紀のデカルトの著作によって科学の基盤となったが、デカルト自身でさえ、生物という"機械"に最初の生命を吹き込むための特別な力の存在を信じていた(※デカルトは「生物は機械である」と考えていたけれど、最初に生命を動かし始める"何か"は必要だとしていた)。ガルヴァーニの時代までに、機械論の影響力は着実に拡大していた。
ガルヴァーニは献身的な医師であり、医療という営みは、部族のシャーマンにまでさかのぼる系譜(医療の起源はシャーマン的治療にあるという歴史観)を持つため、直観と経験的観察─そして生命の神聖さを前提とする生命力的な世界観─が常に入り混じってきた。生命力論者(ヴァイタリスト)たちは長いあいだ、電気という奇妙で非物質的な現象をエラン・ヴィタール(生命力)と結びつけようと試みてきたが、成功しなかった。そして、この問題こそがガルヴァーニの最大の関心事だった。
ある日、彼は夕食の支度のために手すりに一列に吊るしておいたカエルの脚が、風が吹いて鉄柵にぶつかるたびにピクピクと動くのに気づいた。ほぼ同時期、妻のルチアは実験室で、部屋のはるか向こうで稼働中の電気発生装置から電気火花(スパーク)が飛び散ったまさにその瞬間、助手がある鋼製のメスで主要な神経に触れていたため、カエルの足の筋肉が収縮するのを目撃した(当時知られていた電気は、様々な摩擦装置から生じるスパークという形の静電気のみだった)。現在では、スパークによって生じる電場の膨張と収縮がメスに一瞬の誘導電流を生み、それが筋肉を刺激したのだとわかっている。しかしガルヴァーニは、金属の手すりとメスが神経の中に潜んでいた電気を引き出したと信じていた。
ガルヴァーニは、カエルの脚の神経を用いて、様々な金属と組み合わせた回路で何年にもわたって実験を行った。彼は、生気vital spiritとは神経を流れる電気だという確信を深め、1791年にボローニャ科学アカデミーでこれを発表した。
その2年以内に、パヴィア大学の物理学者アレッサンドロ・ボルタは、ガルヴァーニが実際に新しい種類の電気、つまり電気火花(スパーク)ではなく定常電流を発見したことを証明した。彼はバイメタル直流、すなわち二つの金属間の電子の流れを生み出した。それは、あの有名なバルコニーの観察での銅のフックと鉄の手すりのように、導電性媒体——言い換えれば電池——によって接続された。カエルの足は、いわば薄い塩水の袋のようなものであり、それが電解質、すなわち導電媒体だった。それ以外は単なる付随的なものに過ぎず、ガルヴァーニの言う"動物電気"など存在しない、とボルタは説明した。
内気で、争いを一切好まない性格のガルヴァーニは打ちひしがれた。彼の唯一の反論は、1794年に発表された匿名論文であり、回路に金属を用いずにカエルの足を痙攣させることができるといういくつかの実験が記述されていた。ある手順では、実験者は片方の足の神経を、カエルから摘出されたむき出しの脊髄に接触させ、もう片方の足を保持して回路を完成させた。ここで流れた電流こそが真の動物電気であり、足の付け根にある切断創から生じていた。

長い目で見れば、ガルヴァーニは知らず知らずのうちに、機械論者たちに攻撃の材料を与えることで、彼らの主張を助けることになった。エラン・ヴィタール(生命力)が儚い存在である限り、言えることは、それが見つからないということだけだった。ガルヴァーニがそれを電気、つまり検出可能で測定可能な実体だと断じたことで、実験の対象が定まった。実のところ、地質学の創始者、探検家兼博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルト男爵は、1797年にボルタとガルヴァーニの主張がともに部分的に正しいことを証明した。バイメタル(二種類の金属から成る)電流は実在したが、傷ついた肉から生じる自然発生的な電気もまた実在した。しかし、優位に立っていたのは機械論者たちだった。ガルヴァーニの匿名の報告とフンボルトの検証は無視された。ガルヴァーニ自身は、1798年に無一文で、失意のうち死去した。その直前に、侵攻してきたフランス軍によって自宅と財産が没収されていた。一方、ボルタはナポレオンの後援のもとで蓄電池を開発し、名声を博していった。
その後、1830年代、ピサ大学の物理学教授カルロ・マテウッチは、比較的小さな直流電流を測定できる新発明のガルバノメーターを用いて、動物電気に関するさらなる証拠を提示した。35年にわたる綿密な一連の実験により、彼は損傷電流(負傷電流)が実在することを決定的に証明した。しかし、彼はそれを神経系には見出せず、傷口の表面から発せられるのみだったため、生命力と確固たる関連性を結びつけることはできなかった。
この物語は1840年代、ベルリンの生理学学生エミール・デュ・ボワ=レイモンがマテウッチの研究を読んだことで、新たな展開を見せた。デュ・ボア=レイモンは、神経が刺激されると、それに沿ってインパルスが伝わることを示した。彼はそのインパルスを電気的に測定し、それが "起電性の粒子electromotive particles"の塊─まるで導線を流れる電流のようなもの─と結論づけた。彼は直ちに胸を張り、栄光の冠が降り注ぐのを期待した。「もし私が大いに見当違いをしていないならば」と彼は記した。「私は物理学者や生理学者たちの百年にわたる夢、すなわち神経原理と電気の同一性を、完全に現実のものとすることに成功した」。しかし、彼は見当違いをしていた。
一口メモ:electromotive particles(起電粒子)の本来の意味
デュ・ボア=レイモンが使った "起電粒子" は、現代の電気生理学の概念とは違っていて、
・神経の中を伝わる電気的インパルスは微小な"起電性の粒子"の流れ
・つまり、神経は"ワイヤーのように電流を運ぶ"と考えた
という19世紀的モデルを表している。ここでの "particles" は、現代の"粒子(particle physics)"のような厳密な意味ではなく、"電気を運ぶ微小な単位"くらいのイメージ。
まもなく、そのインパルスは電流だとするには伝播速度が遅すぎること、そしてそもそも神経には電流を伝導させるのに適した絶縁性や抵抗がないことがわかった。測定された小さなインパルスと同程度の実際の電流であれば、たとえ短い神経であっても通り抜けることはできなかっただろう。
デュ・ボア=レイモンの優秀な弟子だったユリウス・ベルンシュタインは、1868年に"活動電位"という仮説を提唱し、この行き詰まりを打開した。そのインパルスは電流ではない、とベルンシュタインは述べた。それは膜のイオン的性質における擾乱であり、神経線維、すなわち軸索に沿って伝わるのは、この擾乱そのものだった。
ベルンシュタインの仮説によれば、膜は異なる電荷を持つイオンを、細胞の内側または外側へと選択的に選別できるという(イオンとは、塩が水に溶けた際に分解して生じる荷電粒子。すべての塩は水中で陽イオンと陰イオンに解離する。例えば食塩の場合、陽イオンのナトリウムと陰イオンの塩化物がある)。ベルンシュタインは、膜が陰イオンの大部分を繊維の外側に、陽イオンの大部分を内側に分離できると仮定した。膜は分極化(同種の電荷が片側に集まる状態)しており、膜電位を有していた。これは、片側に集中した負電荷が、両側の平衡を保つために膜を横切って電流として流れる可能性があるからだ。これが、神経が刺激されるたびに膜の短い区間で起こっていた現象だ。膜の一部が脱分極し、膜電位が逆転した。神経インパルスとは、実際には膜に沿って伝わる電位の乱れだった。乱れの領域が移動するにつれ、膜は素早く正常な静止電位を取り戻した。したがって、神経インパルスは電気的に測定可能だったとしても、電流ではなかった。

ベルンシュタインの仮説は、重要な点においてすべて確認されている。しかし、膜にそれらのイオンを往復させるエネルギーを供給するものが何なのか、まだ誰も見出していないため、依然として仮説のままだった。しかし、まもなくこの仮説は、損傷電流の説明を含めるように拡大された。すべての細胞に膜電位があるという推論に基づき、ベルンシュタインは、損傷後、損傷した細胞膜が単にイオンを外部環境へと漏出させていると主張した。したがって、損傷電流はもはや、電気が生命の中心だという証拠ではなく、細胞損傷による取るに足らない副作用に過ぎない。
電気に希望を託していた生気論者たちだが、体内のあちこちから電気的要因が排除されるにつれ、ますます追い詰められていった。彼らの最後の抵抗は、神経伝達物質の発見によって起こった。彼らは、神経同士が通信する隙間、シナプスを飛び越えられるのは電流だけだと主張していた。1920年、後に私の母校となるニューヨーク大学医学部の研究教授オットー・レーヴィによる見事な実験によって、その説は覆された。私がそこで1年生の時に生理学を履修した際、私たちは彼の実験を再現しなければならなかった。

生物学者たちは、カエルの心臓を神経ごと摘出し、適切な溶液に浸すと、数日間鼓動し続けることを発見していた。神経の一つを刺激すると、鼓動は遅くなる。レーヴィと同様に、私たちも神経が付いたそのような心臓を一つ取り出し、神経を刺激して鼓動を遅くした。その後、その心臓を浸していた溶液を採取し、別の心臓をその中に置いた。その心臓は、抑制神経が刺激されていなかったにもかかわらず、拍動が遅くなった。明らかに、その神経は化学物質を生成することで心拍を遅らせており、その物質は神経末端と筋線維の間の隙間を横断していた。この化学物質は後にアセチルコリンだと特定され、ローヴィはこの発見により1936年にノーベル賞を受賞した。彼の研究は、電気的生気論の最後の名残を打ち砕く結果となった。それ以降、神経系のあらゆる機能は、ベルンシュタインの仮説とシナプスを介した化学伝達に基づいて説明されなければならなくなった。
したがって、私は、シニューヒンの報告─損傷電流の強さが植物の再生に影響を与えるという内容─を信頼するにあたり、大きな不安を抱いていた。しかし、彼の報告は詳細かつ慎重に書かれていた。彼の研究のどこかから、それが正しいという直感的な確信が湧いてきた。おそらく、彼が使ったトマトが "ベスト・オブ・オール" という、いかにもアメリカらしい"アメリカン・ビューティー"品種だったからかもしれない(著者の軽い冗談)。この時点では、マテウッチの忘れ去られた研究については知らなかったが、ローズとポレジャエフの実験を研究するうちに、私の頭の中で何かがはまった。両者の実験において、間違いなくポレジャエフの、そしておそらくローズの実験でも、損傷の増大によって再生が促進されていた。
そして、別のロシア人研究者が、まさに時宜を得た手がかりを提供してくれた。政府の翻訳資料の中で、レニングラード細胞学研究所の A. V. ジルムンスキーによる1958年の論文を見つけた。彼はウシガエルの後肢筋肉における損傷電流を研究していた。この筋肉は長く、扱いやすく、いくつかの異なる神経からの枝分かれを含んでいる。彼は各筋肉に標準的な損傷を与え、損傷電流を測定した後、神経を枝ごとに切断し、電流への影響を記録した。神経を切断するたびに、電流は減少した。損傷電流は神経の量に比例していた。
そこで私は図書館へ行き、神経生理学の歴史を再び掘り下げたところ、マテウッチによる素晴らしい一連の観察記録を見つけた。彼は損傷電流が実在することを証明しただけでなく、それが傷の重症度に比例して変化することを示していた。
これで、パズルを解き始めるのに十分な手がかりが揃った。私はこれらの観察結果を簡単に整理した:
✹ 損傷の範囲は再生に比例する
✹ 神経の量は再生に比例する
✹ 損傷の範囲は損傷電流に比例する
✹ 神経の量は損傷電流に比例する
✹ ゆえに:損傷電流は再生に比例する
当時の"常識"とは裏腹に、損傷電流は単なる副作用ではなく、成長制御や脱分化を刺激する因子の手がかりを探す上で、真っ先に注目すべき対象だと、私は確信していた。私は最初の実験を計画した。
第3章 奇跡の兆し
真の科学は、絵画や彫刻、あるいは文学と同様に創造的だ。美とは、その定義は様々だが、芸術の基準であり、同様に優れた理論には、私たちが美しいと感じる優雅さ、均衡、そして簡潔さが備わっている。熟練した芸術家が余計なものを省き、私たちの注意を統一的な概念へと導くのと同様に、科学者もまた、知覚上の混沌の底に潜む、比較的単純な秩序を見出そうと努める。おそらくそれは私自身の理論だったからだろうが、損傷電流が再生を刺激するという私の説は、単純であり同時に美しいものにも思えた。すべての事実が一つにまとまり、その着想が浮かんだ時に私が感じた興奮の感覚を、言葉で伝えることは不可能だ。私は、それまで説明のつかなかった現象を解明する、新しい何かを生み出した。自分の考えが正しいかどうか、確かめるのが待ちきれなかった。
ベルンシュタイン仮説が損傷電流の説明として用いられてきた長い間、その電流がどれほど長く続くかを調べるために、数日間にわたって測定しようと考えた者は誰もいなかった。もしそれが単に損傷した細胞から漏れ出したイオンに過ぎないのなら、それらの細胞が死滅するか、あるいは自己修復を終える1日、2日後には消失するはずだ。再生する四肢と再生しない四肢の電流を比較するという、この単純な測定こそが、私が計画していたことだった。私はカエルとサンショウウオの前脚を、一様に同じ条件で切断するつもりだった。そして、カエルの切断面が癒合し、サンショウウオの脚が再生するにつれ、毎日損傷電流を測定するつもりだった。
実験自体はこれ以上ないほど単純だった。難しいのは、実験を行う許可を得ることだった。
研究プロジェクトを行いたい場合、資金を得るためには特定のルートを通らなければならない。研究計画書を作成し、検証したい仮説、その必要性、そして具体的な実施方法を詳細に記す。その計画書は、同業者、つまり関連研究で実績のある人々で構成されるはずの委員会に提出される。委員会がプロジェクトを承認し、資金が確保できれば、通常は申請額の一部、つまり研究を始めるのに十分な金額が支給される。
復員軍人庁(退役軍人省)は、政府機関の給与が低いにもかかわらず医師を引き付けるための、一種の"賄賂"として、数年にわたり研究資金を配分していた。ワシントンからの資金は、スタッフの中で最も影響力のある医師たちによって分配されていた。彼らが必ずしも最高の研究者だったわけではないが、復員軍人庁が特に整形外科医の採用に苦戦していたため、私には十分なチャンスがあると感じていた。さらに、私の仮説はローズ、ポレジャエフ、シンガー、シニューヒン、ジルムンスキーらの研究に基づいており、その論理は揺るぎない。そして、カエルとサンショウウオは解剖学的に類似しているため、両者の損傷部位における電流の違いは、その再生能力の格差を反映しているはずだった。外部要因によって計画が頓挫する可能性は、このように極めて低かった。
提案書を書いている時、自分の人生が一周したと考えたことを覚えている。1941年、大学1年生の頃、私はサンショウウオを用いて粗末な実験を行い、ヨウ素による甲状腺刺激が再生を促進しないことを示していた。それから20年近く経った今、その間の研究成果の恩恵を受けた私は、同じ現象に関する知見を深め、ひょっとすれば人間の患者を助ける何かを発見できるかもしれないと期待していた。助成金の審査基準の一つに、研究者がその特定の分野で訓練を受けているかどうかがあったため、私の回り道のような経歴が不利に働くのではないかと心配した。この研究計画は、整形外科医ではなく、生理学者から提出されるものと期待されていたはずだ。とはいえ、私が求めていた資金は比較的微々たるものだった。装置を揃えるのに必要なのは千ドルだけだったので、大きな問題にはならないだろうと予想していた。
裁定の場
「ベッカー博士、1時間後に特別研究委員会の会議に出席してもらえないか?」
委員会の秘書からの連絡だった。何かおかしいと気づいていた。提案書を提出してから2ヶ月が経ち、その行方について問い合わせても、一度も返答がなかった。
「行くよ」
「研究室じゃないんだ。階下の病院長の執務室だ」
それは本当に奇妙だった。病院長は研究プログラムにほとんど関心を示さない。それに、彼の執務室はバーベキューができるほど広い。
バーベキューだった。申し分ない、私が焼かれる側だった。院長の会議室は模様替えされていた。磨き上げられた長いテーブルの代わりに、十数脚の椅子が半円形に並べられており、それぞれに病院や医学部の重鎮たちが座っていた。生化学と生理学の各学科長、そして病院長と研究部長の姿を私は見分けられた。学部長だけが欠けていた。
中央には、一つ椅子があった─私のために。
代表者はすぐに本題に入った。
「我々は君の提案について、極めて深刻な根本的な懸念を抱いている。電気と生物に何らかの関連があるという考えは、とっくの昔に完全に否定されている。その説には全く根拠がなく、君が引用している新しい科学的証拠も価値がない。その考え全体は、いかさま師や騙されやすい大衆にアピールすることを目的としていた。私は、この医学部がそのようなペテン的で非科学的なプロジェクトと結びつくのを、ただ傍観しているつもりはない」
賛同する囁きがグループ中に広がった。
私は、自分がガリレオやジョルダーノ・ブルーノになったような、つかの間のスリルを覚えた。窓辺へ歩いて行き、芝生の上に火刑台と薪が積まれているか確かめてみようかと思った。しかし実際には、私の仮説は優れた研究によって十分に裏付けられていると今まで通り考えているし、そしてそれが通説に真っ向から逆らうとしたら、申し訳ないとは思った、という趣旨の簡潔なスピーチをした。最後に、提案を撤回するつもりはないので、彼らはそれに対処せざるを得ないだろうと述べた。
家に着くと、怒りは消えていた。私は院長に電話し、提案を撤回して、自分の過ちを謝罪し、研究から手を引き、退役軍人省を辞めて、もっと稼げる民間診療所に移る覚悟だった。幸いなことに、妻のリルは、時として私自身よりも私をよく理解している。彼女は私にこう言った。
「個人開業なんて、気が滅入るわよ。これこそ、あなたがやりたいことなんだから、ただ様子を見ればいいのよ」
2日後、委員会が決定権をチェスター・インテマ教授に委ねたという知らせが入った。彼は解剖学者で、かつてサンショウウオの耳の再生について研究していた人物だ。シラキュースで再生研究を行ったことのあるのは彼だけだったため、なぜ最初の審査に彼が含まれていなかったのか、私はずっと不思議に思っていた。私は不安を抱えて彼を訪ねた。というのも、彼の最新の研究は、私が提案の根拠としたシンガーの神経に関する研究を否定しているように見えたからだ。
インテマは標準的な手法を用い、ごく幼いサンショウウオの胚を手術し、神経系を形成するはずの組織をすべて切除した。そして、神経を摘出したこれらの胚を、それぞれ正常な胚の背中に移植した。無傷の胚が移植片に血液と栄養を供給し、この処置によって、神経がないことを除けば正常な、小さな"並体の双生体parabiotic twin"が、それぞれの宿主の背中にくっついた形で生じた。その後、インテマはこれらの並体の双生体からそれぞれ片足を切断したが、そのうちのいくつかは再生した。顕微鏡検査の結果、宿主から移植片へと神経が侵入している痕跡は認められなかったため、インテマの実験はシンガーの結論に疑問を投げかけるものとなった。
一口メモ:"parabiotic twin" の意味
インテマの実験では:神経を除去したサンショウウオ胚(A)を正常な胚(B)の背中に移植して、A が B に寄生するようにくっついて成長するという状態を作っている。これは parabiosis(並体結合) と呼ばれる実験手法で、血液循環を共有する"二つの個体"を作るもの。その結果できるのが "parabiotic twin"。並体で結合した付属個体
インテマ博士は、私がこれまで出会った中で最も気さくな紳士の一人だったが、彼の研究室に入ったとき、そのディケンズ的な威厳ある風貌─背が高く、痩せていて、年配で、険しい顔立ちをしており、完璧に糊付けされた長い白い実験着を着ていた─は、まるで学部長の前に呼び出された新入生のような気分にさせた。しかし、彼はすぐに私の緊張を解いてくれた。
「君の提案書を読んだが、実に興味深いと思う」と、彼は心からの関心を込めて言った。
「本当ですか?」と私は尋ねた。「私の考えはシンガーの研究に依拠しているので、即座に却下されるのではないかと恐れていました」
「マーク・シンガーは優秀で、慎重な研究者だよ」とインテマは答えた。「彼の観察結果に疑いは持たない。私が述べたのは、特殊な状況下における彼の発見の例外に過ぎないんだ」
再生、神経、そして研究そのものについて長く楽しい会話を交わした後、彼は私に承認を与えつつ、こう忠告した。「君がやりたいことについて、あまり期待しすぎないように。成功するとはちっとも思わないが、それでもやってみるべきだと思う。若い研究者を励ます必要があるしね。それに、楽しいだろうし、結局のところ何か新しいことを学べるかもしれない。結果はどうだったか教えてくれ。もし助けが必要なら、いつでもここにいる。すぐに退役軍人省の人たちに連絡するから、さっさと取り掛かってくれ。幸運を祈る」
これが、長い友情の始まりだった。チェスター・インテマの励ましには、深く感謝している。もし彼が、研究は楽しくあるべきで、流行りではなく自分がやりたいことをやるべきだと信じていなかったら、私の最初の実験は不可能だっただろうし、この本も決して書かれることはなかっただろう。
"反転"
まず、サンショウウオやカエルの良い仕入れ先を見つけた。テネシー州の野生生物保護官で、余暇にこの商売を営んでいた人物だ。時折、荷物のなかに小さなヘビというサプライズが入っていた。彼が意図的に入れたのか、それとも間違いだったのか、結局わからなかった。いずれにせよ、彼の扱う動物は、質の劣る水槽飼育の個体ではなく、自然の生息地から採集された丈夫な個体だった。
次に、いくつかの技術的な問題を解決した。その中で最も重要なのは、電極をどこに配置するかという問題だった。回路を形成するには、二本の電極が動物に接触していなければならなかった。一本は"ホット(基準電極に対して電位が変化する側)"、または測定電極であり、固定された基準電極に対して正極か負極かを決定する役割を持っていた。負極性とは、測定電極が置かれた場所に電子が多いことを意味し、正極性とは基準部位に電子が多いことを意味した。特定の場所で負電荷が持続的に優勢だということは、その地点に向かって電流が流れており、電子の蓄積が絶えず補充されていることを意味している。したがって基準電極の配置は極めて重要だった。電圧値だけ合っていても、極性(電流の向き)を誤ってしまうおそれがあるからだ。毎回、妥当な位置を選び、そこに置く必要があった。神経が何らかの形で電流と関連していると仮定していたため、四肢へと神経線維を伸ばす細胞体は、良い基準点のように思われた。これらの細胞体は、腕が体幹と接合する部位のすぐ頭側にある、脊髄の頸膨大(腕の神経が集まる脊髄の膨らみ)と呼ばれる領域に位置していた。そこで、カエルでもサンショウウオでも、測定電極は切断断端の表面に直接置き、基準電極は頸膨大の上の皮膚に置いた。
装置をセットアップした後、処置していない個体で予備測定を行った。すべての個体において、頸膨大には正電荷領域が認められ、各四肢の先端には約8~10ミリボルトの負電荷が観測された。これは、頭部と体幹から四肢、そしてサンショウウオの場合は尾部へと電子が流れていることを示唆していた。実際に実験を開始するにあたり、麻酔下で14匹のサンショウウオと14匹のヨーロッパアカガエルに対し、右前肢を肘と手首の間で切断した。血液凝固が非常に速く進むため、出血に対する特別な予防措置は講じなかった。傷口は開放したままにしておかなければならなかった。サンショウウオの切断部位を皮膚で覆うと再生が止まってしまうだけでなく、私が調査していたのは自然のプロセスだったからだ。自然界では、カエルもサンショウウオも、私が意図的に与えたものと同様の傷を負うことがある─両者とも淡水バスのお気に入りの餌だ─が、外科医の助けを借りずに治癒する。
麻酔が切れて血餅が形成されると、私は各切断面から電圧を測定した。驚いたことに、切断直後、切断面の極性が正極に反転していた。翌日には20ミリボルト以上に上昇しており、カエルとサンショウウオの両方で同じ値を示した。
私は毎日測定を行い、芽体が形成されるにつれて、サンショウウオの電圧がカエルのそれを上回ると予想していた。しかし、そうはならなかった。サンショウウオの切断部位から流れる電流の強さは急速に低下したが、カエルの切断面からの電流は当初の水準を維持した。3日目には、サンショウウオからは電流が全く検出されなくなり、芽体さえも現れ始めていなかった。
実験は失敗に終わったように見えた。その場でやめようかとも思ったが、何かが私を測定を続けさせた。良い練習になるだろうと思ったのかもしれない。
すると、6日目から10日目の間に、面白い傾向が現れた。サンショウウオの電位は再び極性を変え、正常な電圧を超え、ちょうど芽体が現れ始めた頃にマイナス30ミリボルト以上のピークに達した。カエルたちは依然として、徐々に低下する正の電圧を示し続けていた。サンショウウオの四肢が再生し、カエルの切断面が皮膚と瘢痕組織(かさぶた)で覆われるにつれ、両グループの四肢は(反対の方向から)徐々に、元の基準値、マイナス10ミリボルトに戻っていった。

これは、私の想像をはるかに超える確証だった! 最初の実験の時点で、私は研究がもたらし得る最高の成果─誰も見たことのないものを目撃する興奮─をすでに得ていた。私は今、損傷電流が死にかけていた細胞によるものではないことを確信した。その時点ですでに死にかけていた細胞は消え去っていたからだ。さらに、極性の違いは、この二種の動物の電気的性質に根本的な相違があることを示しており、それが何らかの形で、なぜ再生できるのがサンショウウオだけなのかを説明してくれるはずだった。負の電位こそが、極めて重要な芽体を生み出しているようだった。それは非常に重要な観察だったが、その事実は私の"すっきりした仮説"を少しばかりかき乱した。

インテマ博士もこれに同意し、論文として発表するよう私に勧めたが、私はまず別のアイデアに飛びついた。私は新たなカエルの群れを用意し、それぞれから前脚を一本切断し、毎日小さな電池から切断面へ負の電流を流した。私は、本来再生能力のない動物において完全な再生を初めて実現する者になることを夢見ていた。まるで「サイエンティフィック・アメリカン」の表紙に自分の名前が載っているのが見えるようだった。カエルたちは私の栄光などどうでもよかったようだ。電極を装着したまま、最大30分間もじっとしていなければならなかった。カエルたちはそれを拒んだため、私は毎日カエルに麻酔をかけたが、カエルはそれを非常に辛そうにしていた。一週間も経たないうちに、私のノーベル賞は死んだカエルの山へと変わってしまった。
しばらくの間、私は医学図書館の埃まみれの書架をくまなく調べ、生体電気に関する過去の研究を探していた。そうして、1909年にオーウェン・E・フレイジーというアメリカ人研究者が書いた論文を見つけた。彼は、サンショウウオの幼生が棲む水槽の水に電流を流すと、その再生が促進されると報告していた。当時、電気機器は極めて原始的だったため、フレイジーの結果だけを鵜呑みにすることはできなかったが、私は自分で試してみることにした。シニューヒンがトマトの苗で行ったことを、私はサンショウウオで実現したいと考えていた。
あるグループのサンショウウオには、切断後最初の5日間、毎日5分から10分間、切断端に直接接続した電池から2マイクロアンペアの正電流を流した。これは0.000002アンペアであり、通常の基準ではごく微弱な電流だが(ほとんどの家庭用回路は15~20アンペアを流している)、切断された肢に流れていると思われる電流と同程度だった。私は、損傷時の電流に見られる通常の正のピークを強化しようとした。この処置は芽体を大きくしたようだが、再生プロセス全体をやや遅らせた。別のグループには、通常の電流が負のピークに達する5日目から9日目にかけて、3マイクロアンペアの負の電流を流した。これにより1週間ほど再生速度は上がったようだが、四肢が完全に再生するまでに要する時間は変わらなかった。最後に、水槽の水に定電流を流すというフレイジーの方法を試した。ここでも結果は、せいぜい曖昧なものに過ぎなかった。これらの失敗から、自分の発見を他の動物に応用する前に、損傷電流がどのように作用するかを理解しなければならないと学んだ。
その間、私は研究結果をまとめた。他に良い方法を知らなかったため、私は論文を「骨関節外科ジャーナルJournal of Bone and Joint Surgery」─世界で最も権威ある整形外科誌─に投稿した。それは愚かな行為だった。
一口メモ:「愚かな行為だった」は、あのタイミングで、あの内容を、あの学会の空気の中で出すのは"政治的に"愚かだった。つまり、敵を増やすリスクが高かったという自戒の念。ベッカーは若手で、しかも当時の通説に逆らう内容を出したから、「いや〜、あれは若気の至りだったな........」というニュアンスで言っている。
この実験には直接の実用的な応用が見込めなかったが、同誌は臨床報告のみを受け付けていた。さらに、同誌の掲載は極めて政治的だった。通常、掲載されるには確立された名声を持っているか、ハーバードやコロンビアのような大手整形外科プログラムに所属していなければならなかった。幸い、私はそのことを知らなかった。誰かが、私の論文こそ、まさに医師が求めていたと考えた。論文が掲載されるだけでなく、1961年1月にマイアミビーチで開催される「整形外科研究学会」と「米国整形外科学会」の合同会議で発表するよう招待された。この招待は特別な名誉だった。なぜなら、私の研究が極めて重要であり、研究者だけでなく臨床医にもその場で知らせるべきだと誰かが判断したことを意味していたからだ。その人物が誰であれ、私はその人に心から感謝している。
私の報告は好意的に受け取られ、ほどなく掲載された。地元の"異端審問官"たちを当惑させ、チェスター・インテマを喜ばせる結果となった。その雑誌は臨床医向けだったからだ。私は、本当に共有したかった基礎研究者たちに実験結果が届かないのではないかと心配したが、またしても私の考えは外れた。翌年、メリル・ローズ本人から電話があった。彼はその論文に興奮しており、それ以来私が何をしてきたのか知りたがっていた。
一口メモ:異端審問官(local inquisitors)は、その地域の保守的な学者・権威・反対派、ベッカーの研究を快く思わない人々。inquisitor は本来は"異端審問官"という意味。でも現代英語では、異端を取り締まる人、体制側の"監視役"、新しい考えを潰そうとする人、学界の"守旧派"といった強い皮肉を込めた比喩として使われる。ベッカーのこの皮肉、「学界の空気なんて知るか、真実を追うんだ」という彼らしさがよく出ている。
ローズはニューオーリンズのチューレーン医科大学で教えていたが、毎夏をケープコッドのウッズホール海洋生物学研究所で過ごしていたため、彼と妻はそこから車でシラキュース(当時、ベッカーが勤めていた病院がある)までやって来た。成功を収めていたにもかかわらず、ローズは偉大な研究者が持つべき完全に開かれた心を保っており、次章で述べる電場、神経、麻酔、磁気に関する私の観察結果に魅了されていた。それ以来、彼の関心は私にとって非常に大きな励みとなっている。この立派な人物であり科学者との友情は、当時の私の予想をはるかに超えて実り多いものとなった。そして、妻と私がローズ夫妻を夕食に招いた際、奇妙な偶然によって私たちの過去がつながっていることがわかった。
彼らがドアをくぐると、リリアンは「ローズ博士! 1940年代にスミス大学にいらっしゃいませんでしたか?」と叫んだ。実は彼女は、ローズの学生実験助手と友人だった。あの有名な"傷口に塩を塗る"実験のためにカエルを捕まえるのを手伝っていた!

─つづく
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

